小村淡彩
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)啖呵《たんか》
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 お柳はひどく酔払った。そして、
「誰がこんなところにいるもんか、しと! ここにいりゃあこそ小松屋の女中だ、ありゃあ小松屋の女中だとさげすまれる。鎌倉へ帰りゃあ、憚りながら一戸の主だ。立派な旦那方だって、挨拶の一つもしてくれまさあ」
と啖呵《たんか》を切って、暇をとってしまった。喧嘩相手であったせきは、煮え切らない様子であとに残った。喧嘩の原因は、お柳の客の小間物屋が、せきばかりをこっそり海浜博覧会へ連れ出そうとしたことにあった。然し、ただそれぎりではなかった。七月二十日の村の祭礼を、小松屋では皆がしんから当にしていた。一昨年の大地震前までは、××寺がちゃんとしていたので、夏休みになると夥しい学生達が参禅に来た。方々の庵室に寝泊りするにしろ、それに必要な寝具、机、食事などは、小松屋が一手で賄った。小松屋に宿をとって山に通う人も殆ど一年中絶えることはなかった。半町ばかり離れた××寺が、その鬱葱《うっそう》とした杉木立の彼方で熾《さかん》に精神的活動を起すと、小松屋の台所は、それにつれていよいよ旺盛になる若者達の食欲を満すため、歓喜に充ちた忙しさをもった。××寺と小松屋とは見えない糸でつながれた二つの車輪のように調子よくこれまでやって来たのであった。ところが思いがけない一昨年の大地震で、何十年来のこのしきたりが破れた。××寺は丸潰れにこそならなかったが、もう迚も以前のように多勢の書生などを収容出来なくなった。同じ地点にあったのだから小松屋の方でも大打撃を蒙った。客室が皆平らにされた。貸蒲団、机などもめちゃめちゃになった。やっと、トタン屋根で三つ四つ座敷のある建物を拵えた。それでも、たまに机の借りてが出来ると、亭主と息子が、
「おい、机はあったかね」
「ああ、バラックん中に何かの下積みんなってらあ。だが――全体脚がついてるかしら」
と問答する有様であった。今は、僅の賄、宿泊客、飲みに来る××寺の僧などでもっていた。それ故、女中も主人達もいいことは尠い。一年に一度の祭礼は、村にとって正月より華やぐ行事であった。その日こそと、女房のいしは、前日魚もたっぷり手配して置いた。三味線を兎に角鳴らせるお柳は、わざわざメリンスの単衣まで気張った。そして、彼女達は、朝から待った。待った。実に待った。その引絞るような期待に報ゆべく現われた男は誰かと言えば、彼女達のげっそりしたのも無理はない。いつも××寺の高い段々を降りて夕飯に来る東京の本屋と、小松屋に十日ばかり泊って鎌倉の町へ移ったペンキ職二人きりであった。くさくさした彼女等は、半自棄になって音なしい本屋をとり巻き、いしを先頭に、小声で途方もない唄を唄っては、ジャランカ、ジャンジャン、
「ああ、こりゃこりゃ」
と騒いだ。が、翌朝、愉快に床を出た者は家じゅうに一人もない。どの顔を見ても文句がつけたそうであった。その鬱憤から始まった口争いでお柳とせきがいがみ合うのが、台所で、もちについた魚のしがくをしていたいしの癇癪に悉く触った。彼女は、骨格の逞しい、丸髷をのせた、写楽の絵まがいの顔を突出して叱った。お柳が負けずに遣りかえした。喧嘩は思いがけない方に飛火した。いしは、
「何もおがんでいて貰う女じゃああるまいし、大概にするがいいや」
ときめつけた。すると、お柳は、我意を得たというように、鎌倉へ帰れば云々と捨科白をなげつけて、さっさと引取ったのであった。いしは、田舎風な束髪に結い、どういうわけか看護婦のするような白い角帯を巻きつけた装のせきに、
「ああ、却って気楽でいいね、私だってお前さんの方が好きさ。気ばかり強くて、あんな奴! 何をして来たか知れたもんじゃありゃしない」
と、愛素を云った。
 威張る者がいなくなった代り、せきはいそがしくなった。彼女は、朝割合早く起きなければならなかった。昼になると、まるで暑い鉄道線路に沿って二十余も賄の出前をしなければならなかった。彼女の立場は丁度、働き者が二人では手が余りすぎる。然し、一人では無理だというところなのであった。
 元、質屋の番頭をした亭主は、体も顔も小作りで、陰気な様子で天気なら畑仕事に出た。いしは、殆ど一日中襷がけで、台所や納屋の間を跣足《はだし》で往復した。出来るだけ材料をかけず、手をかけず、賄料理をしながら、彼女は種々考えた。彼女は、若い女中を前からさがしているのであった。十六七か、せめて二十どまりの。お柳やせきのように、三十近くまで流れ歩いた女など、何と使い難いことだろう。おまけに、綺麗ででもあることか!
 実を云えば、いしには口惜しいことが一つあった。小松屋のつい近所に、たから亭という、矢張り酒を飲ませる家が一軒あった。碌に客間さえないような家だのに、近頃××寺の僧たちは、大分そちらにとられた。酒や煮物が、特別小松屋と異うのではない。いしは、微妙なその秘密を知っていた。それは、二十四になる、たから亭の娘が小綺麗で、気まぐれだという評判があるからだ。
 いしは、今度こそ本当に若い、可愛い、素直な娘を探そうと思い込んだ。そして、この頃は蒲団ばかり借りて行く僧たちを、また、うちで飲ましてやるのだ。彼女は方々に世話を頼んだ。
 お柳が出てから、間のない夕方であった。いしが、例によって台所にいると、店に博労の重次が訪ねて来た。
「おかみさん、一寸手ははなせねえか、話のあった娘っ子が見つかったんだが」
 いしは、紺絣の前掛で手を拭きながら出て来た。
「そうですか、そりゃあありがとう。何にしろ、おせき一人じゃ困るから、いくつです」
 重次は、煙草を吸いつけながら答えた。
「注文よりゃ二つ三つくってるがね、二だとよ」
「――なかなか頃合というものはないもんだね。で、どこだい? 生れは」
「逗子だとよ、親許あ」
「やっぱり浜のもんだね……私が浜育ちでがらがらだから却って調子が合うかもしれない」
 いしは、新しい女に対する好奇心や希望で活溌にハハハと笑った。
「こんな商売こそしてるが、家は堅いんだからね、お金だって確かなもんさ、人に云えないような貰いなんぞ鐚《びた》一文ない代り、定った給金はちゃんちゃん懐に入るんだからね……」
 重次は、ぽつりぽつり云った。
「そうともよ、それにその娘あ、まあ次第によっちゃあ、お前《め》えんところから嫁の世話でも仕て貰いてえ位に思ってるらしいから落付くだろう」
 いしは、早く当人を見たいと思った。
「それでなにかい、その娘は今逗子にいるんですか」
「いいや、もう来ているのさ」
「何処に? この土地にかい?」
「ああここに」
「ここに? なあんだ! そいじゃあ一緒に来たわけかい、馬鹿馬鹿しい、お前さん、何だって今まで黙ってるんだよ、可笑しな人っちゃあありゃあしない」
 いしは、笑いながら、四枚閉る硝子戸の方をすかすようにして声をかけた。
「さあ、一寸お前さん、入っておくんなさい、ちっとも遠慮はいらないよ」
 重次に、
「何て名だい」
と訊きながら、薄暗い土間に現われる娘の姿を、いしは熱心に見た。
「おい、ろく公、這入んな」
 のそりと、硝子の彼方から、ろくは土間に入って来た。にやにや笑いながら、低い入口の敷居を、妙に念に念を入れて片足ずつ大がかりに跨いで。火鉢の前にいるいしを認めると、ろくは、ぽくりと上体をまげて礼をし、そこに突立った。いしは、電燈の灯の下でさえ黒く、しまりなく、薄汚く見える娘の顔を見ると、元気のよかった笑顔を酸ぱいように口許で皺めた。
「まあ、こちらにおあがり」
 ろくは、やっぱり何だか手間のかかる外鰐《そとわ》の歩きつきで、帳場の傍へ上った。彼女は、手をついて、
「何にも出来ませんが、どうぞよろしく」
と挨拶した。その調子は、もう自分はこの家にいられるものときめこんで安心しているようであった。
 いしは、迷惑なような、擽ったいような心持がした。ろくには、多くの女のように、一目で家の中まで見廻すような小憎しい狡いところがない代り、明かに足りなそうなところがあった。足りなくても、色でも白く、見た目がよければまた別だが……。いしは、ろくに訊いた。
「お前さん、奉公は始めてかい」
 ろくは、唇の裏に唾がたまり過ぎているような言葉つきで、
「いいえ、鎌倉の方にもいました」
と答えた。
「お茶屋かい?」
「いいえ、親類の家」
「そうだろうね、客商売でそのなりってこたあないものね」
 ろくは、髪を銀杏返しに結い、黒ぽい縞の木綿着物に、更紗の帯をしていた。髪も帯も古かった。けれども、彼女自身は、一向女房の言葉も、自分のじじむさい身なりにも頓着せず、楽々横坐りに坐っている。いしは、その写楽まがいの顔の口許にだけほんの微笑らしい歪を現わし、正面から凝《じっ》と様子を眺めていたが、やがて重次に云った。
「――まあとにかく置いて行って貰おうじゃあありませんか、二三日一緒にいて見ないことにゃあお互に気心も知れないしね」
 重次は、
「そのことだ」
と立ち上った。
「なんせ、まだ風《ふう》になれないらしいからどんなもんだか、まあ様子を見てくんなさい」
 いしが表を向き、溝川の縁で草を食っていた馬が解かれ、動き出すまで重次と喋っているうちに、せきが、風呂から出て来た。
 見なれない女がいるので、せきは始め黙って帯をしめていた。が、その女が新しく目見得に来た女中候補であり、顔立ちも衣服も自分に劣っているのが分ると、徐ろに親しみを持ち始めた。せきは、東北訛のある言葉で、傍から、
「これをお使いなさい」
と団扇を出してすすめた。ろくは、直ぐなつこそうに訊いた。
「あなたここの姐さんですか」
「そうですよ、もう一人いたんだけれど行っちまったの」
「ねえ、私につとまるだろうかね」
「そう沢山お客もないし大丈夫だよ……私が教えてあげるわ。何て名なのお前さん」
「――ろく――ろくってんだけど……ね、あのね」
 ろくは、せきにすりよるようにし、真心を顔に現わして訊いた。
「あのね、おかみさんがお嫁にいく世話してくれるって本当だろうか」
 せきは、瞬間訳が分らないで、ろくの、黒くて皮膚の薄い、何だか臭そうな顔を見詰めた。
「――あらお前さん女中に来たんでないの」
「女中に来たんだけどね、重次さんが、ここのおかみさんはお嫁に世話してくれるったから」
「まあ、一寸おかみさん、おかみさん」
 せきは、大陽気になって、後からいしの肩をたたかんばかりに声をかけた。
「このひとは、おかみさんがお嫁の世話をしてくれるっていうんで女中に来たんですて!」
 いしは、面倒くさそうに、
「冗談じゃあないよ」
と呟いた。
「さあ、お前さん、このひとにあっちこっちの勝手を教えてやっとくれ、二三日だって何かのたそくにゃなるだろうから」
 数日経つうちに、ろくは、計らず一種の人気者となった。ろくの抜けているのはもう疑いなかった。彼女は、はっきり自分の貰う給金の額もききたださず、小松屋にいることを承知した。云いつけ、誰かが引廻しさえすれば、彼女はその後にくっついて、のたのた外鰐の足どりで何でもした、泥仕事でも、台処でも、苦情などは些も感じないらしい。いしは、最初考えていたのとは、全然違う目論見で、ろくをそう厭だとも思わなくなった。欲ばらず、惜げなく働かせられるから、下婢として重宝なばかりではない。彼女を家じゅうでの人気者、笑いの種にした或ることが、案外飲みに来る男の座興を助けることを発見したからであった。
 せきについて、やっこらと敷居を片足ずつ跨ぎ、ろくは、膳や、飯櫃を抱えて客に出た。せきが、酒の酌などするのを眺めて、にたにたしつつ坐っている。自分も少し酒気を帯ると、せきは、きっと傍のろくに、
「ねえ、おろくさん、どう? この人じゃあ。きいて御覧よ」
と揶揄《やゆ》し始めた。曰くありげな言葉に、客は大抵、
「何だい」
と訊きかえした。
「いえ、ねえ、ハハハこのおろくさんがね、お嫁にいきたくて堪らないんですて。誰か世話してくれって、いつも訊いてるからね、貴方はどうかと
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