思って」
「ほう、そいつは有難いね、へえ、そうかい、おろくさん、そんなにお嫁にいきたいのかい」
ろくは、そう云われるのばかりを待って、先刻から坐っているようであった。彼女は、五本の指が人並にすっきり離れていず、泥っぽい蹼《みずかき》でもついていそうな手で、食台の縁などこすりながら、
「ヘヘヘヘ」
と笑った。
「ハッハッハッ、ヘヘヘヘはいいね、ハッハッハッお前みたいな器量よしは引手あまたで困るだろう、ハッハッ、どうも恐れ入るな」
露骨で卑穢な冗談は、女房が席に現われると一層激しくなった。いしは、噪いで喋った。
「罪だわねお前さん、一度可愛がってやっとくれな、御覧よこの様子をさハハハハ見たとここそ、そりゃあ余り何じゃあないけれどねえ、ろくちゃん、却ってねえ、そうだろう?」
ろくは、矢張り、顔を皆の正面に向けたまま、
「ヘヘヘヘ」
と笑った。
「ヘヘヘヘだってさハッハハハハ」
どっと笑いこける。ろくも一緒になって笑った。それがまた堪らないと笑って、崩れるような騒動になった。
ろくが、嫁に世話してくれと頼むのは、内輪の者だけではなかった。彼女は、殆ど顔を見る人ごとに頼むらしかった。いしは、
「仕様がないねえ」
と云いながら、機嫌よく笑った。
「こうなると愛嬌だね――誰が本気で対手にするもんかよ」
ろくに、狭い村の道順が大抵分った頃であった。或る夕方、ずっと山よりの別荘へ焼魚を届ける用が出来た。せきは、座敷で衣を着た客の対手をしている。いしは、
「一寸、おろくどん」
と呼んだ。
「お前さん、気の毒だが山科さんのところまでこの岡持ちを届けて来てくれないかい。ほら、知ってるだろう? つい二三日前も、おせきと行った茅屋根の家」
「ええ」
「大丈夫だね、よそへなんか置いて来ちゃあいやだよ」
「あのう、畑んとこの家でしょう? 子供のいる」
「そうそう。もう日が翳《かげ》ったから傘なしで行けるよ」
一時間余り、いしは、いそがしい思いをした。県庁の社会課の役人が、××寺で講演会をしに来た。六人前、酒が出た。不図気がつくといそがしい訳であった。ろくがまだ帰って来ていない。彼女は、
「幾時間かかるんだろう! たった三四丁のところへ行くのに」
と独言したきり、まぎれた。が、程経って、上気《のぼせ》た顔付でせきが、
「おろくさんまだですか、手が足りなくて」
と出て来た。いしは、時計を見ておどろいた。日が永い最中で、まだ薄明りこそあるが、七時すぎていた。ろくの出たのは、五時頃であった。二時間たっぷり、何処をぶらぶらしているのだろう。ろくがああいうろくなので、いしは、怒るより少し心配になって来た。彼女は手がすくと、裏でポンプの工合をなおしている亭主のところへ行った。
「あの子ったら、まだ帰らないんだけれど――まさか汽車に轢かれたんじゃああるまいね」
「人を轢きゃあ非常汽笛を鳴らすよ」
いしは、舌打ちをして家に入った。
「おい、干し物あないか、夕立模様だぜ」
四辺はすっかり暗くなった。風につれて、さあっ、さあっと山から山へ立ちこめる霧雨が降って来た。いしは、暫く坐っていたが、番傘を一本持って店を出た。彼女は、溝川を彼方に渡り、線路を越し、傘に当る雨の音につれて夜目に白く大きい花の揺れている蓮池の辺を廻って、山科の別荘まで行って見た。
「今晩は――小松屋でございますが――」
台処口に、おかっぱで洋服の娘が出て来た。
「なあに」
「うちの女中、御注文のものを持って上りましてすか?」
「お魚? ええ来てよ。もうみんな食べちゃったわ」
と元気に返事した。
「そんならようございましたがね、どうしたんだかまだ帰って来ないもんですから……」
「かあさん。一寸」
細君の言葉で、ろくがそこには五分もいないで出たのが分った。
いしは、荒物屋で買物までして戻ったが、ろくは帰っていなかった。
「……妙だな。廻るったって廻るようなところもここにゃあるまいが……」
「何処へか行っちゃったんじゃあないでしょうか」
いしは、濡れた足を板の間で拭き拭き、
「本当にさ!」
と捨鉢に苦笑いした。
「お嫁の口を世話してくんないって、憤って行っちゃったのかも知んないよ」
下駄の音がする度に、皆がひとりでに店から往来の方を見た。――九時になり、十時になった。雨も歇んだ。
ろくが、相変らずのたりのたりとした様子で帰って来たのは、かれこれ十一時という時刻であった。それもよいが、翌日になって、思いがけないことが知れた。ろくは、昨日山科からのかえり、途で見も知らぬ一人の土方に出会った。どっちが先に挨拶したか、それこそ道傍の草しか知らないが、土方はろくに、女房にしてやるから来いと云った。ろくは、それなりその男とあの時分までいて来たのであった。土方は別れるとき、また明日も来いと云った。正直なろくは、ちゃんと約束を守って、前日と同じ場処に行って見た。土方は何処にもいない。彼女は深く失望した。一人で黙っていられないぐらい失望した。それで、せきに打開けたのであった。
いしは、せきからこれを聞くと、さすがに、
「本当かい」
と顔じゅうを伸した。
「見な! それだもの。……どこの国にお前女房にしてやるったって、いきなりそんな……だが土方の奴」
いしは、いい気味そうに笑い出した。
「却ってびっくりしやがっただろう。あのこのこったから、きっと、今直ぐ女房にしてお呉れとでも云ったんだよ、馬鹿馬鹿しい!」
この前後に、村では駐在の更迭があった。新しく来た巡査は、まだ二十七八の若い男であった。町の方でこそこそ泥棒や密会をよく捕えたので、一村を預る駐在所を貰ったのであった。村には、彼しか制服を着ている者がないから、純白の警官服はひどく目立った。彼は巡回の時でも、よくよく磨いて光る靴を穿き手袋までつけていた。剣や靴が麦畑の間など通るとき眩しいほどキラキラする。独身で、小松屋から数町の駐在所に寝泊りした。
或る朝、まだ白々あけの頃であった。
奥で末の娘を抱いて睡っていたいしは、何だか人声で目を醒した。何処でも起きるには早すぎるのに、誰だろう。気になるのは、その余り穏やかでない耳馴れない男の声がどうも店の囲りですることだ。いしは、寝間着の裾を踏みつけながら、帳場へ行って見た。表戸は白い幕を垂れて、まだ夜が残っている。ぐるりと、台処から横木戸の濡縁の方を見て、いしは、思わず眼を擦った。露の一杯たまった茗荷畑の傍にしょんぼり立っているのは、ろくではないだろうか。その前に、姿勢よく突立ってこわい顔をしている浴衣の男は――いしは、これはいけないと思った。駐在だ。
彼女は、戻ってきちんと帯をしめて来た。そして、何気なく縁側の雨戸をくりあけ、始めて二人を認めたように、さも不思議そうに、
「おや」
と、低く叫んだ。
「……そこにいらっしゃるのは……駐在所さんじゃあございませんか」
若い駐在は、いしにむっとした一瞥を与えた。いしは、下駄を突かけて、濡れた空地に出た。
「おや……まあ何だろう、誰かと思ったら……おろくさんじゃあないか!――何かいたしましたんでしょうか」
駐在は、その手は食わぬという風にきめつけた。
「わかるだろう、この装を見たら」
ろくは、下駄だけは穿いていたが、帯ひろ前であった。何処からか帰ったところと見え、もちゃもちゃの髪に木の葉が一枚ついていた。いしは当惑した。ぐると思われているらしいのが、彼女には何より迷惑であった。いしは、ろくを怒鳴りつけた。
「いつの間に、何処へ行っていたんだよ! 旦那にお世話までやかして。まさか盗みに行ったんじゃあなかろう、ちゃんと申上げな。お前のおかげで、私までとんだ迷惑をするじゃあないか」
ろくの手を引張りながら、いしは駐在に云った。
「どうも、まことに相すみません、一体この女はねどうも足りないもんでございますから、この間も行方知れずになったりなんぞして……いくら家にいるもんでも、御法に触れるようなことをしたんなら、仕様がございません、充分お調べ下さった方が手前共も証が立って嬉しゅうございます。――それにしてもお立ちでは……さ、どうぞ、こちらに一寸おかけなすっていただきましょう」
いしは、縁側に座蒲団を出した。駐在は、ぎごちない様子で座蒲団の端に腰を卸した。物音で、せきも起きて来た。彼女は、怯えたように、しおたれて立っているろくと厳しい駐在とを見較べた。彼女は囁きでいしに訊いた。
「どうしたんです、おろくさん」
いしは、大きな声で不平そうに答えた。
「さあ、それが私にもまだ分らないのさ」
駐在は、せきを検視するように見ながら尋ねた。
「お前この女と一緒に寝ているのかいつも」
「ええ」
「一緒に寝ながら、脱け出すのが分らなかったのか」
彼の艶々した血色の好い顔が、このとき意地わるいように見えた。彼は、内心一種の亢奮を感じていた。一体、有名な寺院などのあるところに限って風紀がわるい。自分をこの村に廻された以上、万一法規に触れるような現場でも見つけたら、大いに手腕を振う覚悟であった。何の気なく、黎明の空気を吸いながら散歩をしていると、××寺の杉叢のところから女が出て来た。謂わば出来心で訊くと小松屋の女中であった。行った先、用向きを尋ねても云えない。彼は、何事かを直覚したように感じた。そして、店まで引連れて来たのであった。
駐在は、ねつい口調でろくを訊問した。
「お前の姓名は何というんだ」
ろくは、すっかり畏れ、蒼いむくんだ顔をあげて駐在の顔ばかり見つめた。
「苗字は何というのか、お前の」
「……山田」
「名は?」
「――ろく」
「いくつだ」
「二十三」
いしは、駐在がこんな不意のときでも、ちゃんと手帳を出し、一々書きつけるのを、憎らしいと思った。
「誰の世話で来たのか、この家に」
いしが、愛素を失うまいと口を出した。
「博労の重次さんが、手前で困ってるのを見かねて、ほんの目見得につれて来てくれたんですよ。まだ一月もおりませんのです」
駐在は、いしを見向きもせず、訊問をつづけた。
「お前、さっき××寺から出て来たが、中で何をしていた?」
「まあ! ××寺へ行っていたなんて……」
「おい、何しに行っていた、ちゃんと云わないと警察につれて行って調べなきゃあならんぞ」
ろくは、哀れな顔をして泣き出した。
「御免なさい……私……」
「私がどうしたんだよ、泣いたって仕様がない、はきはきしな」
「私……」
ろくはますますしゃくり上げた。
「私……何も盗りはしません、ただあすこにいる権……権さんのところへ行っただけです」
「誰だい、権というのは」
「……権さんです」
駐在は、短い鉛筆で手帳を叩いた。
「――権さんだけじゃあ分らない」
「……ああ、じゃああの男が権さんていうのかい、こないだ蒲団を背負って行った出眼の男が」
ろくは、合点をした。いしは、吻っとした心持を覚えながら説明した。
「何でございます、権さんてのは、××寺の寺男のようなことをしている、矢張り、まあ一寸、気がよすぎる男のことです」
「ふーむ」
駐在は、やや興味を殺《そ》がれたように見えた。彼は、片手で顎を撫でながら、考えていたが、また訊き出した。
「もとは何処にいた?」
「町です」
「鎌倉か?」
「ええ」
「××でもしていたんだろう」
「御冗談でしょう!」
いしが高飛車に応じた。
「御覧になったって分りますわ」
「本人に訊いているんだ。――お前男と関係したのは今度始めてか」
ろくは、汚く涙で穢れた眼の隅から、駐在を偸見て体を揺った。
「町でも何かあったのか」
これは滑稽な問答であった。ろくは、真面目に、
「――ええ、あの牛乳屋さんが」
と白状した。然し、何という牛乳屋かというと、ろくは、名も住所も知ってはいなかった。駐在は、始りの緊張を失い、ろくの愚しさを慰むように、次から次へ、
「それから、もうないか」
と訊いた。ろくは、隠すと、牢にでも入れられるかと思うらしく、本当に正直に答えた。
「いいえ……あの巡査さんも……」
駐在は、
「ふむ」
と、妙な咳払いをした。いし
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