は、どんなに笑い出したかったろう。
「それぎりか」
 ろくは、一層途方に暮れて見えた。彼女は、手の甲で、幾度も幾度も涙を拭きながら、やっと云った。
「子供が……子供が……」
 いしは、眼を瞠った。
「子供がどうしたんだい、お前さん子供があるの?」
 ろくは、また合点をした。
「どこにさ? 親んところにかい?」
 ろくは、首を横に振った。いしは、瞳が寄るほど力を入れてろくを見た。
「――お前ったら……おなかが大っきいんかい? じゃあ」
 ろくは、ぼっくり頷いた。皆黙ってしまった。駐在は、程なく手持無沙汰に立ち上った。
「じゃあ……兎に角今度のところは、本人の意志から出たことらしいから、このまま黙許してやるから……今後ともよく注意して。何かあると店のためにもならんよ」
「どうも……まことに……」
 いしは、駐在を送り出すと、立てつづけに煙草を吸った。引込んでいた亭主が出て来た。
「――仕様がないじゃねえか、あんな奴を背負い込んで……」
「始めっから判ってりゃ誰も置かないよ」
「疎いなあお前も、女のくせにして、わからないのか様子で」
 いしは、馬鹿にしたように亭主を見た。
「――夫婦喧嘩したって仕様がないじゃあないか、いい年をして何だね。あの駐在め、目をつけたからこれでまた当分五月蠅いや」
 いしは、頻りに何か考えていたが、午後手がすくと、せきを呼んだ。
「一寸すまないが××寺へ行って、権さんてのをつれてきとくれな」
「そんな男に何用があるんだ」
「まあ、まかしておくれ、わるいようにはしないから……仕様がない、おろくと一緒にするのさ」
「一緒にするたって、荷物つきだぞ」
「…………」
 権は、飛び出た眼を不安そうに突き出して直ぐ来た。せきから、今朝の始末を聞いたと見え、彼は、恐縮そうに縞の着物の膝を畳んで挨拶した。
「よく来ておくんなすったね。少し話があるから――じゃ奥へ行きましょうか」
 せきが、茄子の煮たのと酒とを運んだ。一時間ばかりすると、いしの機嫌のいい大声が聞えた。
「おろくどん! 一寸」
 おろくは、台処にい、声をきくと却って手脚をすくめた。
「一寸! 早くおいでいい話だよ」
「ほら、いい話だってさ! 早く聞いといでよ」
 せきが後ろから押すようにして、二人が座敷に入った。ろくは、いい顔色で坐っている権を見ると、忽ちにやにやした。権はひどく改まっている。いしは、今朝とは大違いの調子で、
「おや、笑ってるね、そんなに嬉しいとは羨しいね」
といきなり揶揄した。
「さあ、お礼を云って貰わなくちゃならない。私が口を利いて、権さんが、すっかり承知でお前を女房にしてくれるとさ。本当に今度こさ正真正銘のおかみさんだよ」
 ろくは、薄すり開いていた口のはたを、ぼんやり指で擦りながら、いしから権、権からせきを見廻した。やっと、彼女に合点が行ったらしい。ろくは、眼を小さく小さくすると何ともいえない笑顔になった。せきといしは一時に吹き出した。
「何だよ、その顔は? とろけちゃうさ、本当に。とんだ仲人役を勤めちゃった、ああああ」
「おかみさん……でもよく……まあ……」
「そりゃあ私にかかっちゃね、権さん。どうか末長く可愛がってやって下さいよ」
 権は、顔も崩さず、
「へえ」
と云った。
 彼は、自分ばかり見ては締りなく笑っているろくに向って云った。
「そうきまれば、俺あこれから毎晩来るからな、貴方と呼ぶんだよ、きっと。いいか」
「貴方だってさ、ハッハッハッ、お前じゃいけないんだってさ、ハッハッハッ」
と女房が笑いこけるのに耳もかさず、ろくは仕合わせに恍惚《うっとり》したように「はい」としおらしく答えた。



底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「女性」
   1926(大正15)年1月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月24日公開
2003年7月13日修正
青空文庫作成ファイル:
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