あなたここの姐さんですか」
「そうですよ、もう一人いたんだけれど行っちまったの」
「ねえ、私につとまるだろうかね」
「そう沢山お客もないし大丈夫だよ……私が教えてあげるわ。何て名なのお前さん」
「――ろく――ろくってんだけど……ね、あのね」
 ろくは、せきにすりよるようにし、真心を顔に現わして訊いた。
「あのね、おかみさんがお嫁にいく世話してくれるって本当だろうか」
 せきは、瞬間訳が分らないで、ろくの、黒くて皮膚の薄い、何だか臭そうな顔を見詰めた。
「――あらお前さん女中に来たんでないの」
「女中に来たんだけどね、重次さんが、ここのおかみさんはお嫁に世話してくれるったから」
「まあ、一寸おかみさん、おかみさん」
 せきは、大陽気になって、後からいしの肩をたたかんばかりに声をかけた。
「このひとは、おかみさんがお嫁の世話をしてくれるっていうんで女中に来たんですて!」
 いしは、面倒くさそうに、
「冗談じゃあないよ」
と呟いた。
「さあ、お前さん、このひとにあっちこっちの勝手を教えてやっとくれ、二三日だって何かのたそくにゃなるだろうから」
 数日経つうちに、ろくは、計らず一種の人気者となった。ろくの抜けているのはもう疑いなかった。彼女は、はっきり自分の貰う給金の額もききたださず、小松屋にいることを承知した。云いつけ、誰かが引廻しさえすれば、彼女はその後にくっついて、のたのた外鰐の足どりで何でもした、泥仕事でも、台処でも、苦情などは些も感じないらしい。いしは、最初考えていたのとは、全然違う目論見で、ろくをそう厭だとも思わなくなった。欲ばらず、惜げなく働かせられるから、下婢として重宝なばかりではない。彼女を家じゅうでの人気者、笑いの種にした或ることが、案外飲みに来る男の座興を助けることを発見したからであった。
 せきについて、やっこらと敷居を片足ずつ跨ぎ、ろくは、膳や、飯櫃を抱えて客に出た。せきが、酒の酌などするのを眺めて、にたにたしつつ坐っている。自分も少し酒気を帯ると、せきは、きっと傍のろくに、
「ねえ、おろくさん、どう? この人じゃあ。きいて御覧よ」
と揶揄《やゆ》し始めた。曰くありげな言葉に、客は大抵、
「何だい」
と訊きかえした。
「いえ、ねえ、ハハハこのおろくさんがね、お嫁にいきたくて堪らないんですて。誰か世話してくれって、いつも訊いてるからね、貴方はどうかと
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