ながら、低い入口の敷居を、妙に念に念を入れて片足ずつ大がかりに跨いで。火鉢の前にいるいしを認めると、ろくは、ぽくりと上体をまげて礼をし、そこに突立った。いしは、電燈の灯の下でさえ黒く、しまりなく、薄汚く見える娘の顔を見ると、元気のよかった笑顔を酸ぱいように口許で皺めた。
「まあ、こちらにおあがり」
ろくは、やっぱり何だか手間のかかる外鰐《そとわ》の歩きつきで、帳場の傍へ上った。彼女は、手をついて、
「何にも出来ませんが、どうぞよろしく」
と挨拶した。その調子は、もう自分はこの家にいられるものときめこんで安心しているようであった。
いしは、迷惑なような、擽ったいような心持がした。ろくには、多くの女のように、一目で家の中まで見廻すような小憎しい狡いところがない代り、明かに足りなそうなところがあった。足りなくても、色でも白く、見た目がよければまた別だが……。いしは、ろくに訊いた。
「お前さん、奉公は始めてかい」
ろくは、唇の裏に唾がたまり過ぎているような言葉つきで、
「いいえ、鎌倉の方にもいました」
と答えた。
「お茶屋かい?」
「いいえ、親類の家」
「そうだろうね、客商売でそのなりってこたあないものね」
ろくは、髪を銀杏返しに結い、黒ぽい縞の木綿着物に、更紗の帯をしていた。髪も帯も古かった。けれども、彼女自身は、一向女房の言葉も、自分のじじむさい身なりにも頓着せず、楽々横坐りに坐っている。いしは、その写楽まがいの顔の口許にだけほんの微笑らしい歪を現わし、正面から凝《じっ》と様子を眺めていたが、やがて重次に云った。
「――まあとにかく置いて行って貰おうじゃあありませんか、二三日一緒にいて見ないことにゃあお互に気心も知れないしね」
重次は、
「そのことだ」
と立ち上った。
「なんせ、まだ風《ふう》になれないらしいからどんなもんだか、まあ様子を見てくんなさい」
いしが表を向き、溝川の縁で草を食っていた馬が解かれ、動き出すまで重次と喋っているうちに、せきが、風呂から出て来た。
見なれない女がいるので、せきは始め黙って帯をしめていた。が、その女が新しく目見得に来た女中候補であり、顔立ちも衣服も自分に劣っているのが分ると、徐ろに親しみを持ち始めた。せきは、東北訛のある言葉で、傍から、
「これをお使いなさい」
と団扇を出してすすめた。ろくは、直ぐなつこそうに訊いた。
「
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