を見ておどろいた。日が永い最中で、まだ薄明りこそあるが、七時すぎていた。ろくの出たのは、五時頃であった。二時間たっぷり、何処をぶらぶらしているのだろう。ろくがああいうろくなので、いしは、怒るより少し心配になって来た。彼女は手がすくと、裏でポンプの工合をなおしている亭主のところへ行った。
「あの子ったら、まだ帰らないんだけれど――まさか汽車に轢かれたんじゃああるまいね」
「人を轢きゃあ非常汽笛を鳴らすよ」
 いしは、舌打ちをして家に入った。
「おい、干し物あないか、夕立模様だぜ」
 四辺はすっかり暗くなった。風につれて、さあっ、さあっと山から山へ立ちこめる霧雨が降って来た。いしは、暫く坐っていたが、番傘を一本持って店を出た。彼女は、溝川を彼方に渡り、線路を越し、傘に当る雨の音につれて夜目に白く大きい花の揺れている蓮池の辺を廻って、山科の別荘まで行って見た。
「今晩は――小松屋でございますが――」
 台処口に、おかっぱで洋服の娘が出て来た。
「なあに」
「うちの女中、御注文のものを持って上りましてすか?」
「お魚? ええ来てよ。もうみんな食べちゃったわ」
と元気に返事した。
「そんならようございましたがね、どうしたんだかまだ帰って来ないもんですから……」
「かあさん。一寸」
 細君の言葉で、ろくがそこには五分もいないで出たのが分った。
 いしは、荒物屋で買物までして戻ったが、ろくは帰っていなかった。
「……妙だな。廻るったって廻るようなところもここにゃあるまいが……」
「何処へか行っちゃったんじゃあないでしょうか」
 いしは、濡れた足を板の間で拭き拭き、
「本当にさ!」
と捨鉢に苦笑いした。
「お嫁の口を世話してくんないって、憤って行っちゃったのかも知んないよ」
 下駄の音がする度に、皆がひとりでに店から往来の方を見た。――九時になり、十時になった。雨も歇んだ。
 ろくが、相変らずのたりのたりとした様子で帰って来たのは、かれこれ十一時という時刻であった。それもよいが、翌日になって、思いがけないことが知れた。ろくは、昨日山科からのかえり、途で見も知らぬ一人の土方に出会った。どっちが先に挨拶したか、それこそ道傍の草しか知らないが、土方はろくに、女房にしてやるから来いと云った。ろくは、それなりその男とあの時分までいて来たのであった。土方は別れるとき、また明日も来いと云った。正
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