直なろくは、ちゃんと約束を守って、前日と同じ場処に行って見た。土方は何処にもいない。彼女は深く失望した。一人で黙っていられないぐらい失望した。それで、せきに打開けたのであった。
いしは、せきからこれを聞くと、さすがに、
「本当かい」
と顔じゅうを伸した。
「見な! それだもの。……どこの国にお前女房にしてやるったって、いきなりそんな……だが土方の奴」
いしは、いい気味そうに笑い出した。
「却ってびっくりしやがっただろう。あのこのこったから、きっと、今直ぐ女房にしてお呉れとでも云ったんだよ、馬鹿馬鹿しい!」
この前後に、村では駐在の更迭があった。新しく来た巡査は、まだ二十七八の若い男であった。町の方でこそこそ泥棒や密会をよく捕えたので、一村を預る駐在所を貰ったのであった。村には、彼しか制服を着ている者がないから、純白の警官服はひどく目立った。彼は巡回の時でも、よくよく磨いて光る靴を穿き手袋までつけていた。剣や靴が麦畑の間など通るとき眩しいほどキラキラする。独身で、小松屋から数町の駐在所に寝泊りした。
或る朝、まだ白々あけの頃であった。
奥で末の娘を抱いて睡っていたいしは、何だか人声で目を醒した。何処でも起きるには早すぎるのに、誰だろう。気になるのは、その余り穏やかでない耳馴れない男の声がどうも店の囲りですることだ。いしは、寝間着の裾を踏みつけながら、帳場へ行って見た。表戸は白い幕を垂れて、まだ夜が残っている。ぐるりと、台処から横木戸の濡縁の方を見て、いしは、思わず眼を擦った。露の一杯たまった茗荷畑の傍にしょんぼり立っているのは、ろくではないだろうか。その前に、姿勢よく突立ってこわい顔をしている浴衣の男は――いしは、これはいけないと思った。駐在だ。
彼女は、戻ってきちんと帯をしめて来た。そして、何気なく縁側の雨戸をくりあけ、始めて二人を認めたように、さも不思議そうに、
「おや」
と、低く叫んだ。
「……そこにいらっしゃるのは……駐在所さんじゃあございませんか」
若い駐在は、いしにむっとした一瞥を与えた。いしは、下駄を突かけて、濡れた空地に出た。
「おや……まあ何だろう、誰かと思ったら……おろくさんじゃあないか!――何かいたしましたんでしょうか」
駐在は、その手は食わぬという風にきめつけた。
「わかるだろう、この装を見たら」
ろくは、下駄だけは穿いてい
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