らないジャズの節であった。が、勉はとっさにその調子のせわしい口笛が自分に向って吹かれていること、そして、警戒を意味していることを直覚した。雑誌を草で被い、カラーのところや裾の切れた外套をその上にぶっかけ、立小便をするような姿勢できき耳を立てた。
小枝を踏み折って二三人の跫音と女の笑い声がだんだん近づいた。平地のところまで来ると、迷っている風であったが、左の方へそれて、やがて跫音も賑やかな女の声も勉のところからは聞えなくなった。
仕事がすむまで二時間ばかりかかった。その間に、学生達はもう一度口笛で、その雑木林へ人が入って来ることを勉に知らせたのであった。
勉は、その晩乙女に感動をもって、この若い学生達の示した支持について話してきかせた。部屋のいることをも、そのとき話したのである。
髪にウェーヴをかけたため、面変りして見える乙女が、夜更けてかえるときっと一度は勉のテーブルの横へ立ち、気疲れで乾いた唇をなめなめ低い声でその日「麗人座」での出来事を話した。
「赤旗の歌なんか唄う民主主義者も来るよ。手っ頸の傷を女給にみして、拷問の跡だって威張ってた」
「――ふうむ」
「あたい癪だった――皆そんなんかと思うだろうと思ってさ」
祖父《じっ》ちゃん祖母《ばっ》ちゃんが来て暮すようになってから、すっかり睡眠不足になった勉は、頻繁に耳のうしろの傷を押えながら、むっつりして乙女の云うことを聞くだけで、自分から決してカフェーの模様など訊こうとしなかった。
乙女が少し立てつづけて喋ったりすると、不機嫌に、
「もういい。ねれ」
と云った。勉はカフェーの女給と乙女とを結びつけて感じることに馴れ得ないのであった。
では、乙女がそういう稼ぎにいくらかでも向いたかと云えば、どうして、勉が、或は乙女自身が考えているよりもっと、女給らしくもない妙な女給であった。
乙女の持番の客が来る。ボックスにどっかり腰かけ、
「さて、カクテールでも貰おうか」
すると、わきに立って眉をつり上げ、眼じろぎもせず註文を待っていた乙女が、
「カクテール一杯ね」
必ず念を入れて繰返し、自分自身に向って合点合点をしながら、眉をつり上げて去って、註文されたものを運んで来る。
客が、手を出して、乙女の体にさわろうとでもすると、乙女は、器用にはぐらかすことも口で賑やかに応酬することも出来ず、手など握られたまま、音《ね》も立てず体をちぢめ、高く高く二つの眉をつり上げた。美しいところのある乙女の顔は急にまたびっくりした野兎のように必死な表情になった。客は思いがけない変化に、馬鹿らしいような、照れたような気になり覚えず真顔にかえって手を離し、やがて、
「!」
舌打ちをするのであった。
見習期間を入れて二十日ばかり働くと、乙女は「麗人座」をクビになった。いつまでたってもサービスを覚えないからと云うのである。
勉が寝床の中へまで本をもって入りながら、
「サービスって、みんなどんなことをやるんだ?」
と、はじめてそのときになってきいた。
「――わかんない!」
ウェーヴをかけた頭をふって、乙女は悄気《しょげ》た。
「わかんない!」と力をこめた云いかたが勉に四年前の乙女と自分とを思い起させた。
硝子障子のところに「豚肉アリマス」と書いた紙を貼り出した肉屋が、A市の端れにあり、乙女はそこの娘であった。勉の従弟が重い眼病で、A市の眼科に入院したとき、その病院の手伝いとして乙女が働いていた。二人は段々口をきくようになり、郵便局に勤めていた勉は、「戦旗」などをかしてよました。乙女は小学を出たばかりだが、注意深く興味を示して読んだ。いろいろ本をかりて読み、或るとき、何と思いちがいしたかマルクスの「資本論」をかしてくれと云った。五日ばかりすると、まだ下げ髪にしていた乙女が、小鼻に汗の粒を出してその本を患者の室へ返しに来た。
「――わかった?」
勉が、つい特長ある口元をゆるめ笑顔になって訊いた。そのとき乙女は、額からとび抜けそうに長い眉をつり上げ、二人とも小柄ながら、乙女よりは三四寸上にある勉の顔を見上げて、
「――わかんない!」
力をこめ首をふって、今云ったように云ったのであった。
勉は忘れていたが、二人がいよいよ結婚するとき、勉は牛や馬を貰うのではないから「のし紙」など親にやるに及ばぬと頑ばり、乙女の母親は、牛や馬でないからこそせめて「のし紙」一枚なりと親から出して貰いたいと泣いた。乙女は、いけないと云うなら、家を逃げ出すまでだと云って、もう東京に出ていた勉のところへ来たのであった。
自分もいやだし、いやに思っているが仕方なく黙っている勉の気持をも察し、気苦労して乙女がとった金は、勉の室をかりると、あと十円お石の借金に入れられただけであった。
勉を引越さすことが出来、乙女がほっとする間もなくお石への借金は倍にかさむことになった。アヤが死んだ。葬式の金がなかった。小祝の一家のために、ほかの誰から融通が利こう。
祖父ちゃんとミツ子を紐でおんぶった祖母ちゃんとが、火葬場からアヤのお骨をひろってかえって来た。
祖母ちゃんは、戸棚の奥へ風呂敷包みをつみかえ、前の方だけあけ、そこへ水色の富士絹の風呂敷をひろげてアヤのお骨壺をのせた。
乙女が今度通いはじめた郊外のけちなカフェーから早番でかえって来ると、祖母ちゃんはミツ子の足をだらりとたらしておんぶったままその前に坐って、
「――もう赤い布《きれ》っこも、いらねようになった……」
静かにそう云い、お骨壺から目をはなさず、
「ハあ……」
と溜息をついた。勇がかえって来て突立ったまま、見馴れなそうに、ばつ悪そうにアヤの骨壺を見た。それから、ピョコンと頭を下げて礼をした。
泣く者は誰もなかった。ミツ子は両肩の間に圧し込んだようなおかっぱを乙女の方にふり向けて幾度も、
「お! お!」
食いものでないのが残念という風に骨壺をよごれた指で指さした。
アヤの骨をどこへ埋めるにも、どの寺へ預けるにも、今や祖父ちゃん祖母ちゃんには故郷というものがなかった。――
居据ったような上京当時からの貞之助の態度が、次第に失われはじめた。乙女はそれを、祖父ちゃんの坐り工合からさえ何となく感じた。
新しく借金がふえてから、お石は三日にあげずやって来た。勉はこの頃家へよりつかないらしいがどうしているかだの、乙女の出ているカフエ[#「カフエ」に傍点]はどこかだの詮索するときいて、乙女は、
「祖母《ばっ》ちゃん、気いつけな」
瞼に力を入れ、真剣に云った。
「何されっかしんないよ」
金になることなら何でもしかねない。自分のいるカフェーへ押しかけて来る位ならまだましだ。そう思って乙女はお石に恐怖を感じた。そのとき、祖母ちゃんは、わかったような、分らないような工合で、
「そうだなあ」
と答えていたが、寝てから考えたと見え、次の朝、台所のバケツで乙女が勉のシャツを洗っていると、わきへ来て洗濯ものをかき廻そうとするミツ子をおさえながら、
「――伯母《おんば》は、きのう来たとき、乙女も赤の手つだいしているんだろと、云っておった」
と報告するように告げた。
「ほーれ、見な! 祖母ちゃん何て云った?」
「――カフエに出ておるもん、カフエに出ておると云ったけんどさ」
乙女は、自分のいない留守を心配し、
「祖父ちゃんにもようく云っときな、ねえ」
と注意した。この頃、貞之助は天気がよければ古い乳母車を押して、子供対手の駄菓子を売りに歩いていた。
夕方、およそ勇とかつかつの時刻に家の近くまで戻って来ると、祖父ちゃんは用心して裏の露路から空身《からみ》で入り、お石のいないのを確かめて表へ乳母車を押してまわった。一度かち合って、貞之助は細い売り上げの中からお石に十銭とられた。もう懲りているのであった。
格子がガラリとあき、続いて乳母車の前輪を持ち上げて敷居を跨がす音がすると、ミツ子はどこからかそれをききつけ、抜からずころがり出して来た。
「お! お! じっちゃん!」
強情そうな小さい額を剽軽《ひょうげ》た悦びの表情でつり上げ、
「かしくいて!」
小さい足をとんび脚に坐って四角い風呂敷包みに黒い両手をかけた。
「これ、祖父ちゃんがあがってからむ[#「む」に傍点]らえ」
「いやーン! これ、あたいんちのよゥ……」
祖父ちゃんは黙って上り框《がまち》に腰かけ、砂糖のかかったビスケットを一つ二つミツ子の手に握らした。ミツ子は、上眼で一人一人祖父ちゃんから、祖母ちゃんへと眺めながら、出来るだけの速さで一どきにそれを頬ばる。――
台所での問答があってから、五六日後のことであった。十時頃乙女が、ひどいときは三日に一度ぐらいしか番のまわって来ない「すずらん」に坐っている間に編んだレースの内職を届け、六十銭ばかり貰って坂をぶらぶら中途まであがって来ると、むこうの方からおまわりがやって来た。片側は杉苗の畑で、道は一本である。悠《ゆっ》くりのぼって来ながら乙女が見ていると、そのおまわりは一軒ずつ表札を眺めて来て、小祝の紙切れを貼り出してある格子の前へ立った。あけて、入って、高い声で、
「こんちは――いませんか」
呼んでいる。乙女の息は坂をのぼったためばかりでなくせわしくなって、思わず口をあけるようにしその辺を見廻したが、さり気なく二軒ばかり手前から曲って裏へまわった。
折から、祖母ちゃんがバケツを出し洗濯ものを乾しかけてある。それをしぼり、竿にかけてひろげながら、物音たてず土間での応待をききすました。
「家族は、そうすると今のところ五人か?」
「さよでございます」
「その子は……ああ、ミツ子か」
おまわりは、帖簿をくってでもいるらしく暫く黙っていたが、やがてガチャリと佩剣の音をさせて足をふみかえた。
「それで……息子の勉っていうのが行方不明なんだな?」
乙女は、ミツ子の小さい桃色のズロースを握ったなり、耳の内がカーンとなるような気持である。祖母ちゃんは、いつものゆっくりした低い叮嚀な声で、
「へえ」
と答えている。
「どうして家出なんかしたんだね、子まであるのに――」
「…………」
「――放蕩かね」
「――まあ、そんなようなものでございます」
乙女は肩に力を入れて俯向《うつむ》いたまま思わずも笑いかけ、祖母《ばっ》ちゃん、でかした! 本当に乙女はそう思った。
三十年来、貧乏をしつづけながら、祖父ちゃんは自分ひとりでは飯もたけないままを押しとおしてどうやら勇も小学を出し今日まで暮して来た。いつか勉が、祖父ちゃんは祖母ちゃんで持っているのだと云った。こういう場合に、乙女は祖母ちゃんのその一生懸命な気働きを感じるのであった。
数日の間、乙女は「すずらん」の緑や赤の埃っぽい色電気の下でも、ふと「放蕩かね?」「――まあそんなようなものでございます」という二つの声をまざまざと思い起した。だが一度、一度と思い起すたびに、それに絡んでくる乙女の感情は複雑になった。
勉が放蕩をするような男とは反対の性の男であることが、おまわりとの会話を何とも云えずおかしく妻としての乙女には寧ろ愉快にさえ感じさせたのだが、勉のその確かりした気質について真面目に思いすすめると、乙女は自分と勉とのつながりについてこれまでになく深いものを感じた。
急な情勢の必要から、勉は乙女があれこれ考える暇もなくよそに住むようになった。勉は放蕩から自分をすてる男でない。今まではそこまでしか考えのうちになかった。が、自分が運動についてゆけなければ勉は自分を妻にしては置かないであろう。今では、動かし難くはっきり乙女にそのことが会得された。万一そういうとき、それでもと勉にからみ、恥かしい目を見せることは乙女にとても出来なく思われた。プロレタリアの運動の価うちと勉のねうちがいつしか身にしみこみすぎている。乙女は、それらのことを考え、勉が家を出てから初めて、枕の上に顔を仰向けたままミツ子を抱いて永いこと睡らなかった。
もうセルの時候であった。
明るい、細い雨がよく降った。雨ふりだと、しっとり濡れた前の杉苗畑から、若々しい
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