杉の樹脂の香いが微かに漂って来て戸棚にアヤの骨壺がしまってある二間の家の縁ばたに匂った。
 おそ番の日で、乙女が勉のテーブルに向い本を読んでいた。こんな天気で商いに出られない祖父ちゃんが長いことかかって新聞をよんでいたが、やがて、
「おウ」
 火のない煙管を口からはなして乙女をよんだ。
「こんげにつらまっても、かまわぬものか?」
 乙女は何事かと思い、
「どれ?」
 立って行って新聞をのぞいた。三面の隅に、江東の職業紹介所で全協の労働者が二人あげられたことが数行出ているのであった。
 祖父ちゃんの新聞のよみかたが違って来た。乙女はそれを最近につよく感じた。却って勇なんぞの訊かないことを、この頃祖父ちゃんの方が訊いた。祖父ちゃんは、黙って乙女のたどたどしい説明をきいていたが、暫くして咳払いをし、棒をつき出すように、
「――駄菓子売の組合つ[#「つ」に傍点]はねのか」
と云った。乙女は、何だかどぎまぎして、眉をつり上げた。
「――知んないね」
 また暫くだまりこみ、祖父ちゃんは煙管をかんでいたが、その煙管をとると力を入れて灰ふきをたたき、云った。
「早く勉のいうような世の中になんねば困る!」
 それは、俺が困るという調子ではあったが、乙女は祖父ちゃんのこれは大きい発展であると感じた。
「んだからさ、祖父ちゃん、いつかみたよなこと云うもんでないてよ、ねエ」
 一ヵ月ばかり前、勉が着ていた冬外套を乾したとき、ぼろぼろになっているのを貞之助がひっくりかえして見、
「――男が、三十近くんもなって、東京さいて、こげえなもん着て歩かねばなんねえとは――甲斐性がね」
と云い、乙女が思わずかっとなって諍《あらそ》った。そのことを云っているのであった。
 祖父ちゃんは、しとしと雨のふっている外へ向ってゆっくり煙草の煙をはきながら、黙って膝をゆすった。
 乙女は間もなくからみつくミツ子を祖母ちゃんにだまさせながら着換えに立った。帯を結ぶ間も、大きい雨洋傘《あまがさ》を背広の小柄な体の上にさし、口を結び、こつこつと歩いて行く勉の姿が乙女に見えるような心地であった。



底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
   1951(昭和26)年12月発行
初出:「文芸」
   1934(昭和9)年1月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年4月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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