入った勉が苦しそうに寝返りをうち、夜具をかぶった。
 やがて、ミツ子がじぶくり出す。はじめ夢中で背中をたたいていてやった乙女がすっかり目をさまし、勉が起きるのを心配しながら小声でいろいろすかそうとすると、猪首のミツ子は、わざとそれを撥き返すように体を反らせ、
「いやーァん、ばァちゃーん! いやーァん」
 半年の間の習慣で、ばァちゃんを呼びたて泣き立てた。
 すると、祖母ちゃんが、寝床の中から前掛を締めながら立って、
「さアさ、ミツ子、泣くでねえよ、な、まんまやっから泣くでね、な?」
 飯をもって乙女の床のところへ来てミツ子にあてがうのであった。
 勇が続いて起き、アヤが起き出し、勉も眠っておれず薄い蒲団をあげた。
 勉が寝不足で蒼く乾いた顔を洗う間、祖父《じっ》ちゃんは草箒で格子の前あたりをちっと掃き、掃除のすんだ部屋へ上って坐った。アヤがチャブ台を出す。勇は、祖父ちゃんの拡げた新聞の間から落ちた色刷りの広告を、畳へおいて見ている。
 道具のない台所で飯の仕度をしている乙女が、
「――祖母《ばっ》ちゃん、ちいと吸って見な」
 この頃は眉がつり上ったきりになったような表情で、そこに跼《かが》んでいるまきに小皿をさし出した。まきは、音たかくその味噌汁を吸った。
「よかろ……」
 乙女と祖母《ばっ》ちゃんとは、味噌汁を薄めてそこへうんと塩を入れたものを皆にのませはじめたのである。
 小さいチャブ台にぐるりと膝をつめかけ、ミツ子までものも云わず、非常にはやく、一家は朝飯をくう。
 それから出かけるまで時間があっても、勉は殆ど誰とも口をきかなかった。縁ばたに近い方へ腹這いになって本を読んだ。思い出したように祖父《じっ》ちゃんに向って、
「――おやきの鉄板どうしたかね?」
などと訊くことがあった。
「売って来た」
 ぽっきり、貞之助が答える。二人の間で話はそれ以上のびないのであった。
 勉が、すり切れた紺外套を着て出かける。貞之助は、そういうときでも決して気軽に立って来て見ようなどとしなかった。手織木綿の羽織の肩を張って坐っているのであった。
 夜になって勉が帰って来る。電燈がついているだけの違いで祖父ちゃんは一日たったのにやっぱり朝いたところで、新聞と煙草盆とを前におき、坐っていることが多かった。勉の留守には乙女が、祖母ちゃんが才覚してもって来た粉でそばがきぐらいをこしらえ皆を食べさせた。
 三畳の方にある寝床に入ってから、勉が小声で、
「祖父ちゃん、一日何しているか?」
と乙女に訊いた。
「――坐ってたよ」
 そして、おっかないことでも云うように乙女は一段と声をひそめた。
「祖父《じっ》ちゃん、ぼけてしまったんであるまいか――」
 勉は返事しなかった。そうやって頑固に坐って、祖父ちゃんは自分の暮しぶりを観察している。そのことを勉は感じた。本当に自分が働き出さねばならないか、さほどでないのか、見ているような貞之助の黙りこくった気分が、勉に苦々しく映っているのであった。
 毎日、五時頃になるとダラダラ坂の下の通りにあるラジオ屋の前へ出かけてゆき、職業紹介の放送をきいたり、少年らしい赤い頬に青いシェードの灯かげをうけながら、長いこと飾窓に眺め入っていた勇が、一ヵ月ほどして、京橋の方にある会社の給仕に雇われるようになった。二ヵ月払い五円二十銭の古自転車を勉が見つけて来てやった。勇は嬉しそうにそのペタルを踏んで通い、夜帰って来ると、
「今度の会社、でかいよ。僕らぐらいの給仕が五人もいるよ」
 A市の銀行の小ささがわかったという風に口をとがらして云った。
「だけんど――皆がおらこと」
といつか国言葉に戻り、
「チビの癖して、しわん坊だつ[#「つ」に傍点]からやだなア」
 その会社では給仕仲間で、互に奢りっこが流行《はや》っていた。勇は奢られて食べるが、奢りかえせないのでそう云われるのだった。祖母ちゃんがつかみ針でミツ子の附紐をつけ直しながら、
「――そんだら、勇、くわねばいいのに――」
と心配げに云った。勉が珍しく早めにかえって机に向い仕事をしていた。
「そんなこと気にすることはいらんよ」
 大きい口元を動かし、やさしく、励ますように云った。
「勇は、家をすけてるんだから、無駄銭つかえないからって、威張っていいんだゾ」
 兄貴に似て、色白く、ずんぐりだが口元は小ぢんまりしている勇は、抗弁もしないが、賛成もせず、長まって月おくれの「子供の科学」をめくりはじめた。こんな場合乙女は祖父ちゃんにも一言何とか云って貰いたかった。然し、祖父ちゃんは、黙って坐り、煙草をふかしているのであった。
 ところが、この祖父ちゃんも遂に他人にまざってものを喋り、馴れぬ東京の街を歩きまわらねばならないことが起って来た。A市にいた時分からよく寝ることのあったアヤが大分手のこんだ結核性の腹膜炎で病院に入れなければならなくなったのである。
 勉はその頃仕事のいそがしさと身辺の事情から家に毎晩かえるということが出来なかった。乙女が、祖父ちゃんの下駄をそろえて三河島の伯父のところへやった。年はおつかつだが貞之助の伯父に当る勘吉は十何年来町役場の書記を勤め、東京にあるたった一軒の親戚であった。勇の月給十七円の中から返す約束で当座医者へ払う金をかり、役場の手づるでアヤを方面委員の手で療治させよう。やっとその智慧を搾り当てたのであった。
 勘吉の三度目の女房のお石が、二三日すると、貞之助に印をおさせるために借金証書をもって、やって来た。
 お石は、障子のやぶれた上り口を入るなり、
「田舎もんは仕様がないもんだねえ。家の片づけようもろくそっぽ知りゃしないんだねえ」
 大仰に、色足袋を爪立てて、さもきたなそうに袂をかき合わせ、ただ一枚の座布団に坐り、ジロジロ臥ている病人のアヤやそのあたりを見廻した。そして、叮嚀《ていねい》に襷《たすき》をとって半白の頭を下げる祖母ちゃんに向い、
「御方便なもんですよ、ね、ふだんは出入りもしないどいて、金のいるときだけ役に立つのも、親戚だからさ。へえ、これに一つ、印して下さい」
 乙女は、眉をつり上げるばかりか、痩せた両肩までをつり上げたような恰好で、ミツ子をおんぶい、お石の出す銭を握り、十銭の焼酎とあげもの五銭を買いに出た。勉は、この酌婦あがりで、近所でも評判の伯母夫婦とは何年も行き来せずに暮して来たのである。
 乙女が、一合ぐらい入りそうな空ビンをおんぶした手にもって出ようとすると、お石が、
「ちょいと、このし[#「し」に傍点]とったら! それで買いにいくつもりかい?」
 たとえ買うのは一合でも四合入るうつわ[#「うつわ」に傍点]をもって行かなければ、一合より少くしか売ってよこさない。お石の世渡りは万事この調子なのであった。
 ミツ子が、目を皿のようにしてチャブ台の前に釘づけになり、揚げものにさわるぐらい近くへ手をのばして指さし、
「あれ、くいて[#「くいて」に傍点]! かあちゃん、あれ、くいて[#「くいて」に傍点]」
とせびった。お石は、女の子がイーをするときのように下唇を突出し、
「これ、くいて! か?」
と口真似をしながら、悪《にく》しみの現れた眼でミツ子を眺め自分ひとり焼酎をのんでは、揚げものを突ついた。
 信心がないから、貧乏するし、病人が出る。赤い息子なんぞ出来るのだ。そういうことを肴に、十銭分の焼酎をのみきると、おくび[#「おくび」に傍点]をしながら、帯の間のガマ口から、また十銭玉一つ出して買い足さした。亭主がつとめからひける刻限までお石は二三遍、十銭の焼酎を買いにやるのであった。
 お石がやっとのことで帰った後、貞之助はもう一度勉の机の引出しから三十円の借金証文をとり出して来た。打ちかえしそれを眺め、再び仕舞いに立ちながら、
「――貧乏はついてまわるなあ」
 それは祖父ちゃんが東京へ出てから初めて乙女の聞く沁々した調子であった。
「金があれば、あんげだし……」
「だから、兄《にっ》ちゃんがいつも云うとおりだろ?」
 乙女は、お石のような女を出入りさせるくちおしさと、祖父ちゃんの心持が変って来たらしい期待とで、口の中が乾いたような声で云った。
「世の中が別なようになれば、アヤだって安心して養生しれるんだよ」
 ソヴェト同盟では、区にそれぞれ無料の病院があって療治をしてくれることなどを、乙女は祖父ちゃんにこまごまと、唇をなめなめ話してきかせた。「ソヴェトの友」のグラフなど、A市に一家がいた時分から勉が送ってやっていた。貞之助はこれ迄どう思ってそれを見ていたかしらないが、その日は乙女の云うことを凝っと聞いた。夜、祖母ちゃんに、
「おやきの道具、あんげなものでも売らねばよかったナ」
 そう云っている祖父ちゃんの声がきこえた。

        三

 寝しずまったアスファルトの大通りから、ガソリン屋について左へ左へと曲り、家並のまばらな新開地へ出ると、月は急に高く冴え冴えと、乙女の小さい影を地べたに落した。
 遠く、近く欅の木立が月の光のとけこんだ靄につつまれ、空には、軽い白い雲が浮んでいる。まわりに大きく暈をかけた曇りない月を見ながら歩いて行くと、乙女は月の光の隈なくふりそそぐ微妙な音を、自分の裾や草履の跫音《あしおと》だけがかき乱しているように感じた。そんな時間に独り歩くのは淋しく、こわかった。が、せめてこういう路でも歩いているうちに、新宿へ女給見習に通っている乙女はやっと人心地にかえるのであった。
 アヤは方面委員の世話で慈恵病院に入ったが、附添はこっち持ちで、そのための交通費がいったし、祖父ちゃんがもって行く弁当にうちで皆のたべているスイトンをあてがうわけには行かなかった。
 お石が、出入りするようになってから賃仕事を持って来て、祖母ちゃんと乙女とに稼がせた。木綿物一枚二十五銭で、糸はこっちで持つのである。けれども、この賃仕事は弁口のうまく立たない二人の女にとって何か恐ろしい仕事であった。きちんと約束の日早めに二十五銭もってお石がやって来た。
「へえ、ここへおきますよ。お使者を立てて、いながらのお仕事だから、御身分のいい方は違ったもんだね」
 最後の糸を、祖母ちゃんが歯でかみ切り、縁ばたに出て仕立上った着物を、パタパタとはらうと、例によって焼酎をのみながら待っていたお石がすぐ、
「どれ?」
と検査した。自分で癇癖そうに畳みつけて、暫く敷き圧しをした。そして、帰りしな、仕立物の風呂敷を抱えて立ち上ると、片手を祖母ちゃんの、時には乙女の腺病質らしい鳩胸の前へさしつけ、
「おかず買ってかえるから二十銭おくれ」
 お石は睫一つ動かさずぴったり顔を見据えてそう云うのであった。あまりのことにこちらはゴクリと思わず唾をのむ。対手に圧されてことわる言葉も出ないうち、むざむざとそこにある小銭の中から二十銭というものをとられてしまうのであった。
 乙女がカフェー働きの決心をしたには一日も早くこの鬼をのがれるためと、他にもう一つ原因があった。
 勉が安全に活動をつづけて行くためには、家をはなれ、よそに室を借りる必要が迫っていた。
 最近も雑誌が製本屋へ廻ったとき狙われはじめたことがわかったので、勉は機会をうかがい敏速に数百部の雑誌を運び出してしまった。急のことで発送する場所がない。円タクを盲滅法に市外まで走らせて、或る雑木林へその荷物をかつぎ込んだ。ちょうど土曜日のひる過のことであった。勉が重い荷物でよろめきながら、麗らかな陽のさしとおす欅やクヌギの間を林の奥へ奥へとわけて行くと、不意に芝草の生えた狭い平地へ出てしまった。草の上に、三人若い学生が寝ころがって喋っている。むこうもこっちもびっくりした。学生は一時に話をやめ、一人は起き上ってソフトをかぶり、大きい口をキと結んで荷物を下げている小男の勉を眺めた。
 引かえすわけにも行かず、勉はそのまま進んで再び平地のうしろに続いている樹の茂みにわけ入った。いい加減のところで腹をきめ用意の紐や紙をとり出して、包装をはじめた。暫くやっていると、学生たちのいる平地の方角から、高く口笛が響いて来た。勉などの知
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