信心がないから、貧乏するし、病人が出る。赤い息子なんぞ出来るのだ。そういうことを肴に、十銭分の焼酎をのみきると、おくび[#「おくび」に傍点]をしながら、帯の間のガマ口から、また十銭玉一つ出して買い足さした。亭主がつとめからひける刻限までお石は二三遍、十銭の焼酎を買いにやるのであった。
 お石がやっとのことで帰った後、貞之助はもう一度勉の机の引出しから三十円の借金証文をとり出して来た。打ちかえしそれを眺め、再び仕舞いに立ちながら、
「――貧乏はついてまわるなあ」
 それは祖父ちゃんが東京へ出てから初めて乙女の聞く沁々した調子であった。
「金があれば、あんげだし……」
「だから、兄《にっ》ちゃんがいつも云うとおりだろ?」
 乙女は、お石のような女を出入りさせるくちおしさと、祖父ちゃんの心持が変って来たらしい期待とで、口の中が乾いたような声で云った。
「世の中が別なようになれば、アヤだって安心して養生しれるんだよ」
 ソヴェト同盟では、区にそれぞれ無料の病院があって療治をしてくれることなどを、乙女は祖父ちゃんにこまごまと、唇をなめなめ話してきかせた。「ソヴェトの友」のグラフなど、A市に一家がいた時分から勉が送ってやっていた。貞之助はこれ迄どう思ってそれを見ていたかしらないが、その日は乙女の云うことを凝っと聞いた。夜、祖母ちゃんに、
「おやきの道具、あんげなものでも売らねばよかったナ」
 そう云っている祖父ちゃんの声がきこえた。

        三

 寝しずまったアスファルトの大通りから、ガソリン屋について左へ左へと曲り、家並のまばらな新開地へ出ると、月は急に高く冴え冴えと、乙女の小さい影を地べたに落した。
 遠く、近く欅の木立が月の光のとけこんだ靄につつまれ、空には、軽い白い雲が浮んでいる。まわりに大きく暈をかけた曇りない月を見ながら歩いて行くと、乙女は月の光の隈なくふりそそぐ微妙な音を、自分の裾や草履の跫音《あしおと》だけがかき乱しているように感じた。そんな時間に独り歩くのは淋しく、こわかった。が、せめてこういう路でも歩いているうちに、新宿へ女給見習に通っている乙女はやっと人心地にかえるのであった。
 アヤは方面委員の世話で慈恵病院に入ったが、附添はこっち持ちで、そのための交通費がいったし、祖父ちゃんがもって行く弁当にうちで皆のたべているスイトンをあてがうわけには行
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