んだ結核性の腹膜炎で病院に入れなければならなくなったのである。
勉はその頃仕事のいそがしさと身辺の事情から家に毎晩かえるということが出来なかった。乙女が、祖父ちゃんの下駄をそろえて三河島の伯父のところへやった。年はおつかつだが貞之助の伯父に当る勘吉は十何年来町役場の書記を勤め、東京にあるたった一軒の親戚であった。勇の月給十七円の中から返す約束で当座医者へ払う金をかり、役場の手づるでアヤを方面委員の手で療治させよう。やっとその智慧を搾り当てたのであった。
勘吉の三度目の女房のお石が、二三日すると、貞之助に印をおさせるために借金証書をもって、やって来た。
お石は、障子のやぶれた上り口を入るなり、
「田舎もんは仕様がないもんだねえ。家の片づけようもろくそっぽ知りゃしないんだねえ」
大仰に、色足袋を爪立てて、さもきたなそうに袂をかき合わせ、ただ一枚の座布団に坐り、ジロジロ臥ている病人のアヤやそのあたりを見廻した。そして、叮嚀《ていねい》に襷《たすき》をとって半白の頭を下げる祖母ちゃんに向い、
「御方便なもんですよ、ね、ふだんは出入りもしないどいて、金のいるときだけ役に立つのも、親戚だからさ。へえ、これに一つ、印して下さい」
乙女は、眉をつり上げるばかりか、痩せた両肩までをつり上げたような恰好で、ミツ子をおんぶい、お石の出す銭を握り、十銭の焼酎とあげもの五銭を買いに出た。勉は、この酌婦あがりで、近所でも評判の伯母夫婦とは何年も行き来せずに暮して来たのである。
乙女が、一合ぐらい入りそうな空ビンをおんぶした手にもって出ようとすると、お石が、
「ちょいと、このし[#「し」に傍点]とったら! それで買いにいくつもりかい?」
たとえ買うのは一合でも四合入るうつわ[#「うつわ」に傍点]をもって行かなければ、一合より少くしか売ってよこさない。お石の世渡りは万事この調子なのであった。
ミツ子が、目を皿のようにしてチャブ台の前に釘づけになり、揚げものにさわるぐらい近くへ手をのばして指さし、
「あれ、くいて[#「くいて」に傍点]! かあちゃん、あれ、くいて[#「くいて」に傍点]」
とせびった。お石は、女の子がイーをするときのように下唇を突出し、
「これ、くいて! か?」
と口真似をしながら、悪《にく》しみの現れた眼でミツ子を眺め自分ひとり焼酎をのんでは、揚げものを突ついた。
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