然し心配はいらない。私は、一冊本が買えても買えなくても、多くの場合、同じように愉快であった。彼処に、あの煉瓦の建物の中に、彼那にぎっしり、いろいろの絵と文字で埋まった書籍がつまっているのだ。それを知っている丈でも、豊かなよい心持でないか。
 幸福な、而も田舎の子供のようにしかつめらしい顔をした私は、次に工事を終ったばかりの京橋を渡り、第一相互館の宏壮な建物の下に出る。
 そこに、私のフェイボリットが二つあった。
 一つは、電気器具販売店、一つは、仏蘭西香水の売店。
 どちらも一階の往来に面した処にあった。真鍮の太い手摺にぴったりよって立ち、私は、ぼんやり空想の世界に溶け込む。
 ああ、あの高貴そうな金唐草の頸長瓶に湛えられている、とろりとした金色の液を見よ。揺れると音が立ち、日が直射すると虹さえ浮き立ちそうな色だ。
 彼方の清らかな棚におさまっている瀟洒な平瓶。薄みどりの優雅な花汁。
 東洋趣味と鋭い西洋趣味との特殊な調和を見せている黒地総花模様の飾瓶などを眺めていると、私の胸には複雑な音楽が湧いて来た。
 亢奮が、私をじっとさせて置かない。
 声にならない音律に魂をとりかこまれながら、瞳を耀かせ、次の窓に移る。
 その間にも、私の背後に、活気ある都会の行人は絶えず流動していた。
 通りすがりに、強い葉巻の匂いを掠めて行く男、私の耳に、きれぎれな語尾の華やかな響だけをのこして過る女達。
 印袢纏にゴム長靴を引ずった小僧が、岡持を肩に引かつぎ、鼻唄まじりで私の傍によって来た。どんな面白いものを見ているのか、と云う風で。
 彼は、一寸立ち止る。じろりと見渡す。何処も彼処も、彼には一向面白可笑しくもないラムプスタンドばかり並んでいるのを認めると、忽ち、「なあんだ!」と云う表情を、日にやけた小癪な反り鼻のまわりに浮べる。
 もう一遍、さも育ちきった若者らしく、じろりと私に流眄《ながしめ》をくれ、かたりと岡持をゆすりあげ、頓着かまいのない様子で又歩き出す。三尺をとっぽさきに結んだ小さい腰がだぶだぶの靴を引ずる努力で動く拍子に、歌い出した鼻唄が、私の耳に入って来る。
 私は、思わず微笑する。
「小僧さん。ただ見たばかりじゃあ勿論詰らないさ。一寸、あの青珠の下った、雲の天蓋のような色をしたスタンドを真中にして絵を画いて見給え。中に灯がついたらどんな明りがさすだろう。繞りに置いて
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