ある花や、男のひと、女の人の顔にどんな影がつくだろう。――夏の夜のようかな。それとも、暖炉でポコポコ石炭が燃える冬や、積った雪に似合わしいか? そう思って見るから、実は私も飽きないのさ。」
心の中で愉しい独りごとを呟きながら、もう姿も見えない小僧の跡をたどって、私もそろそろもと来た方に還り始める。――
それにしても、このような空想的|遠征《エクスピディション》を、旧銀座通りの白昼にしたのは、私ばかりであったろうか。
身なりもかまわず、風が誘うと一枚の木の葉のようにあの街頭に姿を現し、目的もなく、買う慾もなく、ただ愉しんで美を吸い込んで歩いたのは、貧しい一人の芸術愛好者、私ばかりであったろうか。
――そうは思われない。
私の眼が、一人の仲間を見た憶えがある。
或る晩春の午後であった。
私が独りで、ぶらぶら白く埃の浮いた鋪道《ペーブメント》を京橋の方に歩いていると、前後して一人の若者が通りすがった。同じ方向に行く。これぞと云う定った目的はないらしく、彼は絵ハガキ屋のスタンド迄のぞいて、殆ど私と同時に一軒の花屋の前に立ち止った。
広い間口から眺めると、羊歯《しだ》科の緑葉と巧にとり合せた色さまざまの優しい花が、心を誘うように美しく見えた。花店につきものの、独特のすずしさ、繊細な蔭、よい匂のそよぎが辺満ちている。私は牽つけられるように内に入った。そして一巡して出て来て見ると、若者はまださっきから同じところに立ったまま身動もしずにいる。
彼は、往来を歩いていたときとはまるで違うなごやかな、恍惚とした風で魅せられたように一つの鉢を見入っているのである。
それは、今を盛に咲き満ちた見事な西洋蘭の一鉢であった。
鮮やかな形のうちに清い渋みをたたえたライラック色の花弁は、水のように日を燦かすフレームの中で、無邪気な、やや憂いを帯びた蝶が、音を立てず群れ遊ぶように見えた。
飴緑色の半透明な茎を、根を埋めた水苔のもくもくした際から見あげると、宛然《さながら》それ自身が南洋の繁茂した大樹林のように感じられた。
想像の豊かな若者なら、きっとその蔭に照る強い日の色、風の光、色彩の濃い熱帯の鳥の翼ばたきをまざまざと想うことが出来るに違いない。
そう思って見れば、これ等の瑞々しい紫丁香花《むらさきはしどい》色の花弁の上には敏感に、微に、遠い雲の流れがてりはえているよう
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