グダラのマリアの物語の人間らしい美しさは、イエスと彼女との間に、世俗の男女のいきさつがなかったという、いわゆる「キリスト教的」な純潔さにあるのではない。男女のぬかるみにつっこまれて生きて来たマリアが、人間と人間との間にあり得る愛というものを知って、その信頼から湧く歓喜の深みへ、わが心と身とをなげ入れて生きるようになった、その純一さが、彼女についての物語に、いつも新鮮な感動を、おぼえさせるのである。伝説に語られている環境のなかで、青年イエスの心情を、最もリアルに理解することのできたものの一人は、社会の下づみで、現実にさらされて来たマリアであったのは当然だった。イエスとマリアとの間には、花の香とそのかおりを吹きおくるそよ風のように微妙な心のかよいがあったにしろ、マリアを純一にし、まじりけなく行動させたのは窮極において、彼女が人間の関係のうちに見出したまともなものへの献身であった。
 正義、良心、恥を知る心などというものは何と現代に愚弄されているだろう。それだのに、なお、わたしたちには、しつこく、正しさを愛し、人間らしさを求めずにいられない心がのこされている。それは、なぜなのだろう。すこしは
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