にうちたたかれ、くやしい足でけられ、しかし遂にその上に数万人の女が泣きふした、その人間としての純潔について以外にはない。はじめから純潔は、天使的《エンジェリック》なものなんかではなかったのだ。男に対する女の性の純潔などという局限されたものでもなかった。マグダラのマリアの物語がこのことを示している。マグダラのマリアは、迫害されながら、迫害するものの欲望のみたして[#「みたして」に傍点]として生きる売笑婦であった。ローマの権力に対して譲歩しない批判者であった大工の息子のイエスは、彼の意見に同感し、行動をともにするようになった漁夫のペテロそのほかの素朴な人たちとともに、苦しみのなかに生きている一人の者として、マリアを正統な人間関係の中へおくようにした。教会流にマリアが「悔いあらため」、消極的、否定的に「きよきもの」となっていただけなら、どうして彼女が、第一に、甦ったイエスを見たという愛の幻想にとらわれたろう。彼女は、どういう苦悩を予感して、イエスの埃にまみれて痛い足を、あたためた香油にひたして洗い、その足を自分のゆたかに柔かな髪の毛で拭く、という限りなく思いやりにみたされた動作をしたろう。マ
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