る、と。
 この主張によって、ローレンスは、こんにちのわたしたちからみると、いくらか少年ぽいむき[#「むき」に傍点]さで、性に関して医学的な言葉をつかわなかった過去の文学上の習慣、とくにイギリスの習慣に反抗を示した。ローレンスの反抗は、フランスの自然主義の初期、その先駆者ゾラなどが、近代科学の成果、その発見を文学にうけ入れるべきだとして、科学書からの抜萃をそのまま小説へはめこんだ、その試みの精神と通じるところがある。
 ローレンスは、一方でそのように勇敢であったが、それならローレンスは、一九二〇年代のヨーロッパ社会の中に営まれている自分の人生というものに対して、つよい確信をもち、闘う力をもっていたかといえば、性格的にそういう作家ではなかった。彼にはいつも不安と嫌悪があった。生きてゆくについての恐怖や不安は何だったのだろうか。世界の歴史が成長したこんにち、わたしたちは、このことのややその本質に迫って、理解する可能を与えられている。彼の生存につきまとう不安と恐怖は、とりも直さず第一次大戦前後のヨーロッパ小市民の時代的な不安であったのだった。ヨーロッパの中産階級はそのころから急速に経済能力の不安を感じはじめていた。特権階級の者は、当時なお強固な基礎を失っていなかったし、労働者階級は失業や賃下げに対して闘って、労働して生きてゆく大衆としての力をもっている。ノッティンガムの礦夫の息子として生れ、教育のあった母のおかげと、自分の努力で大学に学ぶことのできたD・H・ローレンスは、「白孔雀」を処女作として、彼独特の文学の道に立った。彼は、礦区の人々の人生をものがたる作家とはならなかった。「白孔雀」は黒い炭坑の人々の生活の庭に飼われている鳥ではない、文学と教養によって、所謂教養と地位のある人々の生活にふれ、そこにまじわった若い作家ローレンスが発見したのは何だったろう。遂に彼を「不埒な男」とした中流、上流社会の偽善や無知、ばからしい虚偽への反抗であった。D・H・ローレンスは、いつもたった一人の、風の変った、宙ぶらりんな反抗者であるしかなかった。ダンテが巧みにいっている、地獄の中でも辛い地獄は、宙ぶらりんという地獄、と。――
 彼の作品のあるものには、現代社会の機構や社会の生産にたずさわる労働大衆の現実について、当時としてもおどろかれる無智と独断が示されている。ローレンスは、自分がその底から生れ出て来た大衆を信頼しないし、このんでいなかった。何をするにも金、金。その金銭の害悪は、金銭の乏しい彼に金をつかわないで楽しく暮せる生活法の発見――イギリスの社会改良家の伝統的な幻想である素朴な自給自足生活へのあこがれ――をうけつがせた。ローレンスは、生活の現実におそいかかって来る果しない矛盾、恐怖、解決の見出されない不安を、感覚の世界へ没入することでいやされ、人生との和睦を見出したのだった。その感覚的生存感の核心を性に見出したのだった。
 ローレンスの勇気にかかわらず、その勇気の本質は神経的であり、感覚の反乱であったことが、否定しがたく明瞭になって来る。こんにち、わたしたちが、かりに一人の未亡人の生活の上に、とざされた性の課題を見出すとき、それは社会的な複雑な条件に包囲されているばかりに、とざされた性としておかれていなければならないことを見ないものがあるだろうか。女性と子供とが、その社会で、どのように生きることができているか、その現実こそ、その社会の発展の程度を語る、という普遍的な真実も、性に作用する社会条件の重大さの認識に立っている。ヒューマニティーのより自然で、より美しい流露を願うならば、D・H・ローレンスの行ったたたかいは、局部的であったし、人間社会の現実問題としての性の課題の根本にまで触れない。現代文学が主題とするヒューマニズム探求の一環として見た場合、D・H・ローレンスの文学は、こんにちの現実を解明するためにローレンス氏方式ではすでに不十分であることを、明かにして来ているのである。
 敗戦後の日本に、肉体派とよばれる一連の文学があらわれた。過去の日本の封建性、軍国主義は、日本のヒューマニティーを封鎖し、破壊し、生命そのものをさえ、その人のものとさせなかった。ヒューマニティーの奪還、生命に蒙った脅迫への復讐として、あらゆる破滅の瞬間にも自身のものとして確認された肉体によって、現実にうちあたって行こうとする主張に立った。しかし、日本の不幸が男女のどんなからみ合いの過程から、うち破られてゆくだろう。まんじ巴[#「まんじ巴」に傍点]と男女の性がいりみだれ、どんな姿態が展開されたにしても、大局からみれば、文学に渦まくそのまんじ巴[#「まんじ巴」に傍点]そのものが、日本の悲劇と無方向を語るものでしかない。D・H・ローレンスの作品のあるものは、一九三〇年代のはじ
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