めごろ、日本に翻訳された。三岸節子の装幀で、瀟洒な白と金の地に、黒い縞馬の描かれた本も見た。当時、それは、文学作品としてよまれたのだった。
 時をへだてて、ふたたびローレンスの作品集が出版されはじめた。そして、刑事問題をおこしている。取締りにあたる人々が、問題となっている作品を全部よまないで、好奇的に語られている部分だけよんで、告訴しているといわれている。それが事実ならば取りしまる[#「取りしまる」に傍点]立場の人々、自身の卑猥さがそのことにあらわれている。問題がおこってから俄にローレンスの作品の社会的、文学的意味をジャーナリズムの上に語りはじめた同じ人たちが、出版のはじめから、「チャタレイ夫人の恋人」のバンドに刷られたアンケートが果して文学の問題であるかどうか考えることは出来なかったろうか。問題をもっている一つの文学作品を紹介するには、そのはじめに(さわぎのあとからでなく)客観的な、提灯もちでない解説があっていいのではなかろうか。ローレンスの作品の問題につれて、わたしたちに感じられているのは、ローレンスそのひとの文学のきたなさ[#「きたなさ」に傍点]ではない。社会的に未熟であり、きょうからみれば、ヒューマニティーそのもののバランスを失っているところのある、ローレンスの作品を扱うにあたって露出された、戦後日本らしいよごれ[#「よごれ」に傍点]のあれこれについて考えさせられているのである。

 現実のその苦しさから、意識を飛躍させようとして、たとえばある作家の作品に描かれているように、バリ島で行われている原始的な性の祭典の思い出や南方の夜のなかに浮きあがっている性器崇拝の彫刻におおわれた寺院の建物の追想にのがれても、結局、そこには、主人公の人間としての苦悩を解決するものはない。その小説の主人公の若く美しい妻は、自主的に解放されているというよりも、夫となっている主人公に、はじめ、冷たく蹂躪させた露通《るつう》な性を、物にかえている。夫の苦痛はそこからはじまっている。未開なバリ島の性の祭典には、けがされない性の陶酔があり、主人公のところに東京のひきさかれた生存の頽廃があるというコントラストだけがとらえられても、従属させられている男女の社会生活におけるヒューマニティーの課題はこたえられきれない。

 こんにち純潔についていうならば、それは涙と血と泥によごれた女のこぶしで散々にうちたたかれ、くやしい足でけられ、しかし遂にその上に数万人の女が泣きふした、その人間としての純潔について以外にはない。はじめから純潔は、天使的《エンジェリック》なものなんかではなかったのだ。男に対する女の性の純潔などという局限されたものでもなかった。マグダラのマリアの物語がこのことを示している。マグダラのマリアは、迫害されながら、迫害するものの欲望のみたして[#「みたして」に傍点]として生きる売笑婦であった。ローマの権力に対して譲歩しない批判者であった大工の息子のイエスは、彼の意見に同感し、行動をともにするようになった漁夫のペテロそのほかの素朴な人たちとともに、苦しみのなかに生きている一人の者として、マリアを正統な人間関係の中へおくようにした。教会流にマリアが「悔いあらため」、消極的、否定的に「きよきもの」となっていただけなら、どうして彼女が、第一に、甦ったイエスを見たという愛の幻想にとらわれたろう。彼女は、どういう苦悩を予感して、イエスの埃にまみれて痛い足を、あたためた香油にひたして洗い、その足を自分のゆたかに柔かな髪の毛で拭く、という限りなく思いやりにみたされた動作をしたろう。マグダラのマリアの物語の人間らしい美しさは、イエスと彼女との間に、世俗の男女のいきさつがなかったという、いわゆる「キリスト教的」な純潔さにあるのではない。男女のぬかるみにつっこまれて生きて来たマリアが、人間と人間との間にあり得る愛というものを知って、その信頼から湧く歓喜の深みへ、わが心と身とをなげ入れて生きるようになった、その純一さが、彼女についての物語に、いつも新鮮な感動を、おぼえさせるのである。伝説に語られている環境のなかで、青年イエスの心情を、最もリアルに理解することのできたものの一人は、社会の下づみで、現実にさらされて来たマリアであったのは当然だった。イエスとマリアとの間には、花の香とそのかおりを吹きおくるそよ風のように微妙な心のかよいがあったにしろ、マリアを純一にし、まじりけなく行動させたのは窮極において、彼女が人間の関係のうちに見出したまともなものへの献身であった。
 正義、良心、恥を知る心などというものは何と現代に愚弄されているだろう。それだのに、なお、わたしたちには、しつこく、正しさを愛し、人間らしさを求めずにいられない心がのこされている。それは、なぜなのだろう。すこしは
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング