げしい表現をもっていえば、穢辱そのものに苦しむよりも、穢辱に苦しむ人間性のゆえに苦しんでいるのである。そこに人間がある。苦しむ人間性をまっとうに評価するひとと自分への責任がある。「風にそよぐ葦」に児玉榕子という女性が登場して来る。小説の中の人物は小説中の人物だという考えは、日本のジャーナリズムの奇妙な流行によって変化させられた。小説の中では児玉榕子という名をもって存在している一人の女性の人生態度についての架空会見記(十月号女性改造)を偶然よんだ。
「風にそよぐ葦」は甚だひろくよまれている。戦争に反対し、軍国主義の非人間的だった時期の日本の悲劇を描くとされているのであるけれども、榕子という女性を描いている作者のその意図について疑いをもたされる人は少くないだろうと思う。わたくしとはいわず、あたくしと、はやりどおりにいうこの女性は、どうしてこんなに賢こげな言葉をつらねてすべてまともであるべき問題を、はぐらかし、銀色に光っているとすれば、それは不潔のうちに棲息するなめくじの這い跡のようでなくてはならないのだろう。
榕子として書かれているその女性の話しは、まるでそっくりそのまま「結婚の生態」における作者の日本の女性・結婚・家庭観である。「人が生きるのは思想によってじゃなくってよ」「思想が、あたくしに何をしてくれたでしょう。あたくしは思想なんて形のないものは、きらい」「あたくしはむずかしい言葉はよく知っているけれども、自分で考えることは出来ません」「葦沢の父のうけうりで、いろいろなことを考えたりしていただけで、あの家をはなれてからそんなことについて考えてゆく興味もないの」「あたくしたち、日本の女として育ってきましたから、流されてゆくことをたのしむということのほかに人生のたのしみを見つけることはできないのですもの」
これらの言葉は、つめたい毒のようにわたしたちの手足をこおらせる。
同じ作者が書いた「生きている兵隊」という小説は、戦場の野蛮さと非人間さが、現代の理性とヒューマニティーを片はじから喰いころしてゆく、暴力の血なまぐさい高笑いを描いた作品であった。榕子の言葉は、こんにち、こんどは美貌の女の唇をとおして日本の中で、語られる極めてインヒューマンな発言である。自分の夫を、なぐったり蹴ったりして殺した下士官広瀬に復讐を思い立つが、「目の前で見ていると、それは男らしくて美しい顔だちの人で」その男の求愛をしりぞけたのは、思想のためでもその男に死なされた夫への愛のためでもなかった。「あたくし、ぜいたくに生れついているのよ。それも広瀬が金の力でゆるしてくれるような出来合いのぜいたくじゃなくって、みんなの人がこれがいいって言ってくれるような上品なぜいたくでなければ、いやなの」それが理由だった。「それに広瀬だって、泰介と同じような人間じゃないの」「条件がわるかったのよ」「日本人の何人が軍国主義者でなかったでしょう。今そうではなくなっていれば、もうそれでいいじゃないの」
榕子の女としての考えかたに、そっくり「結婚の生態」のテーマを辿ることができる。「生きている兵隊」の血にそんだ高笑いを、彼女の思想の否定――理性排除の思想に思いおこす。この美しいひとが、「同じ言葉を同じ形で何度もくりかえせる精神というものは、それが強い精神なのよ」といっていることにも特別な関心をひかれる。
「一度の状況に対してただ一度の言葉を考えようとするなんて、それはインテリの身だしなみなんで、それは弱いものの負けおしみにしか過ぎません」下士官広瀬は、榕子によって強い精神[#「強い精神」に傍点]とされる精神の所有者であり、現実における辻政信その他の人々も、石川達三という作家によってうまれている彼女の流儀によれば、やはり強い精神をもって、日本のこんにちに暗く作用しつつある。「結婚の生態」「生きている兵隊」を通して「風にそよぐ葦」にいたってそれらのテーマの反覆統一として榕子を描いている作者の精神も、その角度からならば、強い芸術の精神[#「強い芸術の精神」に傍点]といわれるのであろうか。もしこの架空会見記をどこかに一人の女性として生活しているモデルと仮想されている人が読んだならば、彼女は描かれた女主人公榕子の人間性の粗末さと発展の可能性の失われている性格について抗議のしようもないひそかな憤りを感じているのではないだろうか。
こんにちわたしたちが生きているために、食うこと、住むことの問題に基礎をおいて理性に負うている苦しみ、人間心情にうけている痛みは、多種多様であり、どんなファウスト博士の試験管の中にも、「純潔人間」は存在しない。わたしたちにわかっているただ一つのものは、わたしたちは、「人間らしく」あろうと努力して、戦争そのほかあらゆる「人間らしくないもの」とたたかいつつ生きつつあると
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