わたしたちは、ここにD・H・ローレンスという作家の秘密の母斑を見る。彼は、人間性の課題としての性の解放を、上流の男女の冷淡で偽善的な情事や打算のある放恣と、はっきり区別しないではいられなかった。この人生において、単純率直に求めるものを求めて行動し、そこに精神と肉体との分裂をもたない人物。そういう男性をローレンスは性の解放者として登場させている。その意味であいての女より階級的に低い階級に属す男が、性の解放という役割において、優位するのである。
ストリンドベリーは、偽善に対する彼のはげしい憤りと女性の動物性への侮蔑から、下層の男の野性を、征服者として登場させている。(令嬢ユリー)こういう実例は、日本の現実の中にも少くない。しかしローレンスは、人間としての女性をはずかしめる者としてではなく、枯涸と酔生夢死から人間の女として覚醒させる者として、より強壮で、率直な男の性を提出している。
D・H・ローレンスは、一生、自分自身がおちこんでいるいくつかの矛盾からぬけ出すことが出来ずに、苦しんだように見える。ローレンス自身、自分の書くものの中に、全く感覚的な特殊な素質と、イギリス人らしい常識とがまざりあったり、分裂したりしたままであらわれることを、どうにもしようがなかったらしい。そのことは、一九二九年に彼がパリでかいた「チャタレイ夫人の恋人」の序文に、まざまざとあらわれている。序文は、バーナード・ショウの社会主義のように常識的であり、H・G・ウェルズの文化史のように健全であり、もっともである。ローレンスはイギリスの常識のうちで、性に関する知識があまりなおざりにされていることに抗議している。そのために結婚生活における信じることの出来ない性生活の非人間の錯誤や度はずれな少年少女の放縦がある。「男も女も、性の問題を十分に、徹底的に、真摯に、そして健全に考える[#「考える」に傍点]ようになることを望むものである」「十分に満足するまで性的に行動することは出来なくとも、性の問題については明確に考えたい」彼のこの考えは、まことに穏健な常識であるというほかの何でもあり得ない。
だけれども、ローレンスは二十年昔の社会の多くの目から、度はずれな男、秩序を破壊しようとしている人物として見られ、一種のけもののような生活に追われたのは何故であったろう。
思うに、それは、D・H・ローレンスという炭礦夫の息子が、たまたま異常な感受性と表現の才能にめぐまれていて、性の解放を主張し、その解放者である男性を、青年貴族だの、上流資産家の二男などの中に見出さず、自分の生れ育った階級に近いところからつれて来ていることが、一部の人々を不安にしたのだと考えられる。家族の晩餐のためにも礼装に着かえる某々卿にとって、ノックされるのが何より厭な暗い性のドアを、ローレンスはフランネル・シャツを着ている男にノックさせた。因習によって無知にされ、そのかげでは人間性の歪められている性の問題のカーテンを、ゆすぶらせたのであった。
卑俗な多くの人々にとって、ローレンスが卑猥であったなら、もっと堪えやすかったろう。なぜなら、卑猥に人々は馴れている。体面をつくろう偽善、上品ぶって見て見ぬふりは、それらの人々の処世の態度なのだから。しかしローレンスが性について語るとき、彼と彼女とは裸の神々のようにむき出しで、自然がその営みにおいてそうであるように、それ自体充実したコースをたどって、かくしだてがない。そのような公明正大な性のあらわれに対して、おどろかされた人々は、どうとがめていいか分らず、しかもだまっていられない衝動にうごかされる。自分たちに信じられないおおっぴらさ[#「おおっぴらさ」に傍点]で、きまじめさで、フランネル・シャツの男が、自分たち階級におとなしく帰属しているべきはずの女を性の自覚と解放に誘ってゆく。――D・H・ローレンスをしつこく非道徳漢として糺弾したのは、彼と別の社会群に属す男たちの不安と嫉妬であったといえるかもしれない。
D・H・ローレンスは、あらゆる自然現象のうちに、ほとんど神秘主義に近い生命感をうけとった作家であった。自然のすぐれたつくりものである人間が、男も女も、微妙につくられた肉体と精神の作用を傷けることがより少い生存の条件というものを、ローレンスは求めた。彼はそれらを、自分の感覚から出発し、感覚にかえって結論する方法によって求めた。ローレンスは次のように考えた。ほんとうに男と女とが愛しあい、互のうちに、めいめいの存在のよりどころと感じるなかであれば、互の肉体のどの部分もみな尊敬されるべきである。愛を表現する精神の働きばかりでなく、それと全く等しく愛を表現し、生命の調和をつかさどる肉体の機能も、そのまままざりものなしに卑屈なはずかしがりなどない見かたと、扱いかたがされるべきであ
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング