女性の歴史の七十四年
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瞠若《どうじゃく》
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(例)[#地付き]〔一九四一年一月〕
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私たち日本の女性は、これまでの歴史の中で、はたしてどんな政治的な経験と呼ばれるものをうけついで来ているのだろうか。
自由民権時代に、岸田俊子その他の若い女性が活躍したことは周知のとおりだし、大正末期から昭和六七年頃までの期間、多くの若い婦人が政治的な関心をめざまされて活動したことも、まだ記憶に新しいことだと思う。
維新の風雲の間を奔走した女のひとたちはもとより少くなくて、それらの婦人たちは歴史の波瀾のうちに生死をも賭したのであったが、総ての時代を通じて印象を辿ってみると、日本の婦人一般にとって政治的な活動をする婦人は、すぐ一種の女傑になってしまって、家庭生活を中心に朝夕を送っている人々の実感からどことなし一歩はなれた存在となって来た傾きがつよいと思われる。
明治十四年に十九歳であった岸田俊子が、三年の女官生活から一直線に自由党の政治運動に入って行った過程は、いかにもその時代の若々しく燃え立って、形の固定していなかった日本の社会情勢を語っていて、俊子の性格の烈しさの面白さばかりに止まらない感興を後世に与える。俊子は、当時の進歩的な人々のものの考えかたに従って男女平等論や一夫一婦論や女子教育論、あるいは政局批判に熱弁をふるったわけであったが、彼女の政治的見解というものははたしてどこまで深くその身についていただろうか。
年齢が若かったというばかりでなく、たとえばそれらの演説会に出るときの服装などについても、俊子は相当のはったりをきかしているところが見える。「大阪では文金高島田、緋縮緬の着物に黒縮緬の帯という芝居の姫君のような濃艶な姿、また京都その他では黒白赤の三枚重ね」と土地柄を見て演出効果を考えていたことも相馬黒光女史の「明治初期の三女性」の中に語られている。明治十六年の秋京都で「女子大演説会」というものを開いたときには、太刀ふじという七つか八つの女の子に前座をつとめさせたこともあった様子である。
明治十三年に神田の区会に婦人傍聴者が現れたということが神崎清氏の婦人年鑑にあって、それから明治二十三年集会結社法で婦人の政談傍聴禁止がしかれるまで、成田梅子、村上半子、景山英子らの活溌な動きがあったのだが、岸田俊子にしろ当時の自由党員中島長城と結婚してからは、自分の過去の政治活動をあまりよろこばしい回想とはしていない口吻であったことが語られている。俊子の生涯の活動ぶり、情熱の中心は、自分というものが身にもっている容色と才智との全部を男と平等なあるいは男を瞠若《どうじゃく》たらしめる女として表現してゆこうとする意欲に熱烈で、その面には徹底的であったらしいけれども、当時のおくれた無智におかれている同性に対しては決して暖い同情者啓蒙者であるといえなかった点も、今日から見ると、一種のおどろきに似た感情を与えられる。
明治三十二年というと中島湘煙の死ぬ二年前のことだが、その頃青柳有美が大磯の病床に彼女を訪問したときの湘煙の談話は、彼女の女性観をまざまざと示している。
有美はその時分女への悪口で攻撃されていたらしい。湘煙はいくらか同情気味で「私は実は女が大嫌いサ。」といっているのである。
「ドウも洒落な、かまわん所がないからナ……男ならどんな人でも大抵手には余さんが……女と来ると丸で呼吸が分らんでナ……どう向けて善いものやら、……トンと困るテ。遇うとつまらん外部ばかりの話をしてナ……ちっとも面白くないのだ。ドウも疲れるよ。一体女というものには少しも禅気がないからナ。女はみんな魔のさしてるものだよ。」
そして、女の仲間へゆくと自分がすっかり無言になって、非常に縮って、顔が熱くなって来て気が遠くなったような心持がして「この腕もトンと揮《ふる》えんてナ」と述懐している。僅か三十七歳ばかりの婦人の言葉としてきくと、これらの言葉づかいそのものさえ今日の女の心には珍奇に思える。ヨーロッパだからって女ばかりが集ってする話は同じことで、外国の夫婦喧嘩の多いことはおどろくばかりである。
「日本の家庭の方が遙に善いよ。殊に昔風の家庭の方がよいよ」と。
しかし、福沢諭吉はこの明治三十二年に六十六歳で「女大学評論」「新女大学」を発表し、貝原益軒流の女庭訓でしばられた日本の女の社会的な向上のために周密真摯な努力と具体策を示しているのである。
自身女性である中島湘煙が、なぜ女はみな魔がさしているような非条理におかれているかというその原因にまでふれ、沈潜して理解してゆこうとせず、かえって男の福沢諭吉が女のために懇切、現実的であったという事実は私たちに何を教えるだろう。それぞれの人の為人《ひととなり》の高低がそこに語られているばかりでなく、婦人そのものの社会的自覚が、その頂点でさえもなお遙かに社会的には狭小な低い視野に止っていた日本の女の歴史の悲しい不具な黎明の姿を、そこに見るのである。
景山英子は、その生涯の間には、婦人の社会的向上の問題の理解を次第に深めて、明治四十年代「青鞜」が発刊された頃には婦人の社会的な問題の土台に生産の諸関係を見、婦人の間に社会層の分裂が生じる必然の推移までを見て、平塚雷鳥が主観の枠内で女性の精神的自己解放をとなえていた到達点を凌駕した。彼女は明治三十四年に女子の工芸学校を創立したりして、婦人の向上の社会的足場を技術の面から高めて行こうとする努力をも試みたのであったが、その業績は顕著ならずして、時代の波濤の間に没している。
明治二十年以後の反動期に入ると、近代国家として日本の社会の一定の方向が確定したとともに、婦人に求めてゆく向上の社会的方向もほぼ固定しはじめた。当時日進月歩であった新日本の足どりにおくれて手足まといとならない範囲に開化して、しかも過去の自由民権時代の女流のように男女平等論などを論ぜず内助の功をあげることを終生のよろこびとする、そのような女を、明治の日本は理想の娘、妻、母として描き出したのであった。三十二年の高等女学校令は、四十二年後の今日に迄つづいていて、その精神は、古くもないが決して新しすぎもしない若い女の産出をめざしているのである。
六十六歳の福沢諭吉が、日清戦争の勝利の後の日本が、一応進歩的傾向での安定を見出したこの三十二年に「新女大学」を発表したということは、なかなか複雑な社会史的ニュアンスがこもっていると思う。
大体福沢諭吉が益軒の「女大学」を読んで、それに疑義を抱き、手控えをこしらえはじめたのは彼の二十五歳の年、大阪から江戸へ出た時代の事である。「学問のすすめ」は明治五年にあらわれて、日本の黎明に大きい光明を投げたのに、「女大学評論」と「新女大学」とは「幾十年の昔になりたる」その腹稿をやっと三十二年になって公表の時機を見出したということには、それ迄の日本が岸田その他の婦人政客を例外的に生みながらも、全体としては「真面目に女大学論など唱えても」耳を傾ける人のすくない状態におかれていたからにほかならない。
婦人の独自な条件に立って体育、知育、徳育の均斉した発達の必要と、家庭生活における夫婦の「自ら屈す可からず、また他を屈伏せしむべからざる」人性の天然に従った両性関係の確立、再婚の自由、娘の結婚にあたって財産贈与などによる婦人の経済的自立性の保護などについて説いている諭吉の「新女大学」は、今日にあっても私たちを爽快にさせる明治の強壮な常識に貫かれている。
若い女性たちが数百の小説本はよみながら、一冊の生理書を読んだこともないひとの多いことをなげき「学問の教育に至りては女子も男子と相異あることなし」ということを原則として示している。けれども、日本の社会の実際は、女の向上を等閑にして数百年を経て来ているのだから、男と同等の程度に女の学問がおよぶためには相当の年月がいるであろうと見ている。
「文明普通の常識」程度として、「ことに我輩が日本女子に限りて是非ともその知識を開発せんと欲する所は社会上の経済思想と法律思想と此の二者にあり」とする諭吉の言説は、とくに注目されなければならない重要な点だと思う。婦人に経済法律とは異様にきこえるかもしれないが、その思想が皆無であるということこそ社会生活で女が無力である原因中の一大原因である。女には是非この知識がいる。「形容すれば文明女子の懐剣と云うも可なり」そして、この新興日本にふさわしい大啓蒙学者は青年のような英気をもって、「夫れ女子は男子に等しく生れて」という冒頭の一句から全篇二十三ヵ条にわたって真に心と肉体の健やかで人間らしい娘、妻、母を生むために必須な社会向上の要点を力説しているのである。
中島湘煙が、いいといった昔風な家庭の土台をなす益軒流の観念に対して、諭吉は歯に衣をきせず「女子が此の教に従って萎縮すればするほど男子のために便利なるゆえ、男子の方が却って女大学を唱え以て自身の我儘を恣にするもの多し(中略)女子たるものは決して油断すべからず」と警告しているのである。
四十余年前に現れているこの「新女大学」の内容の何分の一が、今日の日本に実現されているのであろうか。
たとえば女子の教育について、まだすべての高等専門学校、大学が女子の入学を許すところ迄行っていない。大正十年ごろ、美術学校や早大慶大が女子本科生入学許可の方針をきめたが、それは却下された。早大が昨年やっと正科に女生徒を入れるようになった。
日本の女子にとっては、一層必要とされている経済や法律思想は、現在一般の婦人の常識と日常生活のうちにどこまで具現されているだろうか。
世界の国々ではどこでも、婦人の政治的な成長の第一歩が常に公民権の獲得からはじめられていることは周知のとおりである。永井享氏の「婦人問題研究」によると、イギリスでは一八六九年(明治二年)に女子に公民権を認められ一九一八年(大正七年)の人民代表法で三十歳以上の婦人に参政権を与えた。それによって約六百万人の婦人が選挙権をもつこととなった。ノルウェイの婦人は、一番早く一九一三年(大正二年)完全な参政権を得ている。ドイツが第一次大戦終結の後一九一九年(大正八年)ヴェルサイユ条約成立と年を同じくして、新憲法による男女二十歳以上の一般、平等、直接、無記名投票権を認めていること、および、ソヴェト・ロシアが一九一七年(大正六年)十一月以来生産的公益的労働によって生計を営む十八歳以上の一切のもの(即ち男女をこめて)に選挙権を認めていることなどはすでに知られているとおりである。
ひるがえって日本の明治以降をみると、さきにふれたように、自由民権時代の末期(明治二十三年)に集会結社法で婦人の政談傍聴を禁止されてから、更に明治三十三年(一九〇〇年)エレン・ケイが「児童の世紀」を書いた年、治安警察法第五条によって、女子の政治運動が禁止された。
神崎氏の年表に、三十六年鳩山春子選挙演説を行うとあるけれども、それは恐らく愛する良人か息子のために、この有名な老夫人が出馬応援したという範囲のことであろう。
大正九年、大戦後の波は日本の社会にもうちよせ平塚雷鳥の新婦人協会が治安警察法第四条の改正を議会へ請願したりする迄の十数年間、日本の一般の家庭婦人の経た政治的訓練というものは、一部の婦人の選挙の前後の内助的活動と、選挙が近くなるとあすこの奥さんは愛想がよくなるよ、という風な庶民的諷刺とにとどまっていたと思えるのである。
大正十二年(一九二三年)普選案が国民全体の関心の焦点におかれたにつれて、婦人参政権建議案が初めて議会に提出された。市川房枝、金子しげりなどの婦人参政権獲得期成同盟会が成立したのは翌十三年のおしつまった十二月のことであり、いよいよ十四年普選案が両院を通過したと同時に、婦選の要望もきわめて一般的なひろがりをもちはじめた。
大正十五年二月には婦人参政建議案が衆議院で可決され、昭和二年の全国高等女学校長会議で、
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