いうことが、研究者の間でよく話題にされる。小説「雪の日」の題材となる雪の日の日記があって、それを見ると半井桃水は樋口一葉と同様に貧乏であったことがよくわかる。一葉は当時上流人を集めていた中島歌子の塾に住みこみの弟子のようにしていたが、わがままな育ちの若い貴婦人たちのなかで彼女がどんなに才能をねたまれ、つらいめを見ていたかということは、こまかい插話にもうかがわれる。貧乏というものは口惜しいものだということを一葉は日記の中で書いている。半井桃水が借金に苦しめられて居どころをくらまして、小さい部屋にかくれ住んでいる。そこへ一葉は原稿を読んでもらいにもって行く。貧乏な生活が一葉の現実である以上、それをむき出しにしている半井桃水を自分の仲間、一番近い男だと感じたことがうなずける。生活の現実の類似。貧しい仲間だという気持。それが強い動機となって一葉は桃水に親しみを覚えたにちがいない。ところが桃水との交際を中島歌子から叱られる。一葉は桃水との恋などとは思いもよらないことだといって、桃水とのつきあいは絶ってしまった。桃水とつきあいのあった間、樋口一葉に恋の歌は一つもなかった。実際に桃水とのつきあいをやめて、もう誰も自分の身を非難する人がないというようになって樋口一葉はやっと封建的な圧力からぬけて恋の歌をよんでいる。それもどっさりあふれるように、恋の歌をつくっている。これは、明治という時代にあらわれた一つのデスデモーナのハンカチーフだと思う。
ここに一葉の生きていた明治十九年という時代の封建性の強い性格が私たちに多くのことを語っている。この明治十九年という年を世界の歴史でみれば、アメリカで第一回のメーデーが行われた時代であった。そして、はじめて八時間の労働、八時間の教育、八時間の休養を世界の労働者が要求してたった時であった。明治二十三年に日本では、それまでの自由民権運動を禁圧して、専制権力の絶対性を擁護した。この年に世界の国際メーデーがはじまっている。私たちはこんなにヨーロッパ、アメリカとはずれた歴史の本質の上に今日の歴史をうけついでいるのである。一葉の「たけくらべ」は封建的なものと、藤村などによって紹介されはじめていた近代ヨーロッパの文学にあらわれたロマンティシズムの影響とが珍しい調和をもってあらわれた一粒の露のような特色ある名作である。
明治も四十年代に入ったころ、平塚雷鳥などの青鞜社の運動があった。封建的なしきたりに反対して女も人間である以上自分の才能を発揮し、感情の自主性をもってしかるべきものと主張した。田村俊子の文学は明治の中葉から大正にかけて日本の女がどういう方向で独立を求めたかという段階を示している。田村俊子の人間としての女の感情自由の主張の中には、きょうの目からみると非常にはきちがえた素朴な男女平等の考えかたがある。男のするようなわがままは同じ人間である女もしていいものだし、男が煙草を吸うなら、女だって吸ってあたりまえ、というように、男が中心をなして――つまり封建的な社会的風習を批判せず、ただ男がやっているのなら女もする、という考えかたの限界をもっていた。本質的な発展というものが見られていなかった。それにしても婦人が人間としての自分を主張しはじめ、次第に婦人の経済的独立の必要に理解をすすめてきたという点で明治末期から大正にかけての婦人解放運動は意義をもっている。
昭和のはじめ第一次世界大戦後の各国の社会主義運動の擡頭につれ、日本にもプロレタリア文学運動がはじまった。その時代になってはじめて婦人の社会的地位の向上や婦人解放の課題は、その国の大衆生活全体の地位の向上と解放の実現とともに解決される問題であるということが明瞭になった。男に対して女も、という性の対立の問題ではなくて、勤労する大衆の男女がおかれている社会的地位と搾取する階級との間におこっている近代社会の階級の問題であることが理解されて来たのであった。
プロレタリア文学は文学の分野で、はじめて、おくれた資本主義日本の封建的ののこりものの多い社会機構の中で、文化はどういう歪みを強いられて来ているか、婦人はどうして文学創造の能力を低められているかということを追求し、明白にしはじめた。婦人大衆が社会の現実の中で持っている条件、その不幸な社会的な条件の由来するところ、その不幸や不平等は女を苦しましているとともに、男も不幸にしているということを発見したのであった。それまでの小説には書かれていなかった人民の声、訴え、そのよろこびとかなしみ、未来への希望が書かれ、表現されなければならない。女の胸の中に埋められて来た訴え、語られるべき物語、要求と希望とを発表する能力をやしない、その機会をつくって行ってこそプロレタリア文学は本当の意味で婦人の文学を肯定することになる。
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