どうして養生訓がかけただろう。
徳川時代の文学者としては近松門左衛門にしろ、西鶴、芭蕉にしろ、文学的にはずっと劣るが、有名ではある馬琴だとかが出ている。けれども婦人作家は一人もこの三百年間に出ていない。辛うじて俳句の領域に数人の婦人の名が記されているにすぎない。親や兄、良人、また息子に服従しなければ生きてゆく道がない。自分の意見で生きられない。男が殿様の命令を絶対のものとして服従しなければならなかったとおり、女は男に服従しなければならない時代に、その婦人に文学が書けるはずがない。武士階級にも文学は創造されなくなった。戦さの間には深くものを考えてはいけない。この軍事的教育はついこの間までの日本にも怪異のように存在した。頭を切り取ったその代りに鉄兜をのせられたような人間の生存で、どうして文学という人間らしいうちにも人間らしい創造が行われよう。自分が自分の心の主人であることさえ認められない時代には、それがいつであっても文学は生れない。
芭蕉はどういう境遇のものだったろうか。彼は下級武士で、やがて武士をやめて俳諧の道に入った。芭蕉の風流というものの規準が極端に小さい経済的基礎の上に立っていることは、意味ふかいことである。芭蕉は、小舎の柱に一つの瓢箪をつるし、そのなかに入れた米とそのほかほんの僅かの現世的経済の基礎を必要としただけで、権力のための闘いからも、金銭のための焦慮からも解放された芸術の境地を求めた。それは芭蕉の時代にもう武士階級の経済基礎は商人に握られて不安になっており、したがって武士の矜恃《きょうじ》というものも喪われ、人にすぐれて敏感だった芭蕉に、その虚勢をはった武士の生活が堪えがたかったことを語っている。
大きな商人の隠居だった西鶴はまた違っていた。西鶴が経済的な面で大阪の当時の世相を描き出した短篇「永代蔵」その他は芭蕉と全然違ったリアリティーをもっている。武士出身の芭蕉が芸術へ精進した気がまえ、支那伝来の文化をぬけてじかに日本の生活が訴えてくる新しい感性の世界を求めた芭蕉の追求の強さ、芭蕉はある時期禅の言葉がどっさり入っているような句も作った。その時代を通過してから芭蕉の直感的な実在表現は、芸術として完成された。芭蕉の弟子には婦人の俳人もあった。が女の生活は、たとえ彼女が俳句をつくろうとも、徳川時代の女に求められているすべての義務を果したうえで辛うじて風流の道のためにさかれなければならなかった。芭蕉の芸術のように精煉し圧縮し、感覚をつきつめた芸術の道が、そのような女性の生活ではなかなか歩むにかたいことであった。家事に疲れた僅かの時間を行燈《あんどん》のもとでひっそりと芸術にささげるのでは、女の才能が伸びる可能もまことにおぼつかない。
近松門左衛門は封建の枠にしばられなくなった武家、町人などの人間性の横溢をその悲劇的な浄瑠璃の中で表現した。そして、当時の人々の袖をしぼらせたのであったが、ここには様々の女性のタイプがその犠牲や献身や惨酷さにおいて扱われている。しかし、近松や西鶴に描かれた女性は、自分で自分たち女性の声をかく能力はもたなかった。当時社会のきびしい階級、身分制度によって動かすことの出来なかった堰で、互の人間的発露を阻まれた男女、親子、親友などのいきさつが浄瑠璃者の深情綿々とした抒情性で訴えられている。義理と人情のせき合う緊迫が近松の文学の一つのキイ・ノートであった。近松門左衛門の文学に描かれた不幸な恋人たちは、云い合わせたように心中した。幕府はあいたい死にを禁じていたにもかかわらず、この世では愛を実現出来ない男女が、あの世に希望をつないで死を辿った。
このような哀れな人間性の主張の方法は、決して明治になってからも、日本の社会から消えなかった。そして今日では恋愛から心中しないけれども、生活難から心中する親子が少くなくなって来ていることを私たちは見ているのである。
さて、日本の歴史は明治に移った。明治維新は近代のヨーロッパ社会に勃興した市民階級(ブルジョアジー)が封建社会に君臨した王権を転覆し歴史を前進させた革命ではなかった。日本のブルジョアジーが薩長閥によって作られた政府の権力と妥協し、形を変えて現れた旧勢力に屈従することによって資本主義が社会へ歩みだしたという特殊な性格をもっている。新しい明治がその中にどんな古さをもっていたかということは樋口一葉の小説にも現れている。一葉の傑作「たけくらべ」は、たしかに美しいと思う。雅俗折衷のああいう抒情的な一葉の文章も古典の一つの典型をなしている。
樋口一葉は二十五歳の若さでなくなっている。彼女がはじめて小説を書こうとしはじめたとき、その相談のため半井桃水という文学者との交渉があった。樋口一葉ほどの才能のある女が、桃水のような凡庸な作家とどうして親しくなったかと
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