るけれども、今日の私たちの生活の空気は、そういうことを真の悲しむべきこと、おどろくべきこととしていきなり私たちの心に訴えて来ないようなところがあって、それはあのひと一人にかかわりなく一般の考えなければならないところなのだと思う。私たちの生活から素直な情熱が失われているということ、しかもそれがあやしまれ、苦しまれもしていないということ、それはこわいと思う。
 映画俳優のすき、きらいにしたって、つまりは自分の生活の弾力からの判断である。細かく表現はされないが、何となく虫が好かない、そういうことは名優と云われる人に対しても私たちが自分のこととしては主張出来る筈のことである。そして、虫は好かないけれど、演技は傑出しているというところを自分の好悪からはなして観るような芸術鑑賞のよろこびも、もっと女のゆたかな客観性としてもたれてもいいであろう。これまでの常識は主観的といえば身に近く熱っぽくあたたかいもの、客観性というものは冷たい理智的なものという範疇で簡単に片づけて来ているけれども、人間の精神の豊饒さはそんな素朴な形式的なものではない。女を度しがたい的可愛さにおく女の主観的生きかたも、女がそれに甘えかかって永劫に幸福でもあり得まい。チェホフの「可愛い女」という短篇があって、ああいう女を妻に欲しいという回答を婦人雑誌の質問に対して与えていた青年があった。チェホフは知られているとおり、トルストイと同時代の芸術家として、トルストイとはまた異った芸術の手法をもちつつ人間生活の非人間性を心から苦しく思っていた作家である。「可愛い女」に描かれている女主人公の生きかたは、女の動物的な悲しく滑稽な男性への適応を描き出したものである。
 芸術鑑賞に即して主観的と云われる場合は、それが好きだから好き、というのが原型である。客観的と云うとき、自分の好ききらいを、自分の心から黙殺してかかるのではなくて、好ききらいははっきり掴んでいる上に自分のこの好きさ、このきらいさ、それは自分のどんな感情のありようとこの映画の俳優の演技のどんな性質とが或は引き合い、或は撥《はじ》き合うのかと、その両方から味ってそこにある関係への判断をも自分の心の世界の中のものとしてゆく、それを云うのだと思う。ジャーナリズムの上での批評家の批評のとおりに見ることや所謂《いわゆる》定評に自分の鑑賞をあてはめてゆく態度は、客観的とは反対の、常識追随である。

 この判断ということは、いろいろ面白い。非常に生活的なもの、複雑なものということで面白い。私たちの生活の刻々が意識するしないにかかわらず判断の継続、累積であり、そこにこそ「時間は人間成長のための枠である」という意味ふかい表現の真実がこめられている。
 今日のものを考え自分を考えて生きようとしている真面目な若い女のひとたちは、自分の判断というものに対してどんな態度をもっているのだろう。私はよく自信がなくて、というかこち言をきくので、そのことを考えさせられるわけである。自分なりひとなりの判断を肯定してそこに立ったとき、はじめて判断は現実のものとして存在するものだ。従って、判断とのかかわり合いに於て云えば、たといひとの判断に従う場合にさえやはりそこには従ってよいとするだけの自信が求められているのだと思う。

 判断と自信とは生きかたのうちに一体のものとしてあらわれて来るのだが、一体私たちの日常で自信があるというのは、どういうことをさすのだろうか。
 自信というのは、自分に向っての信用であるわけだが、それなら人間の信用とはどういうところにかかっているものだろう。信用というと、とかく間違いないという面でだけ内容づけられて来たのが旧套であったと思う。どこへおいても大丈夫なひと、そういう表現の与えられることもある。しかし、旧来そう云われる標準は、常識のどこに根拠をおいているかと考えると、自信がなくてと不安がっている若いひとも、時には互にくすりと眼くばせし合って、私これでなかなか信用があるのよ、と笑い合う経験はもっている。この罪のない可愛い諷刺は、おのずから昔風な信用への判断、それにつづく批判として溢れているものではなかろうか。自分たち若いものの活溌な真情にとって、人間評価のよりどころとは思えないような外面的なまたは形式上のことを、小心な善良な年長者たちはとやかく云う。けれどもねえ、そればかりじゃあないわねえ、その心だと思う。
 ところが、いざ自分のその心の面に立って自分としての判断を現実にながめなければならない段になると、自信がなくて、ということになる。自分の判断に従って果して誤りはないか、大丈夫だろうか、そこが不安というわけで、一旦は否定してそこからはもう自分の生活感情が舟出してしまっている筈の女の歴史の旧《もと》の港をふりかえるのである。そこではどっさり
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