の意味で何かやらなければならないという場合、とりつきやすいのは目の前の見た目に立つ趣向である。浦和からの娘子行進にしろ、目に立つことでは成功したろう。けれども、そこから生れた後味、それによってこそ行進した方の真の感激も、行進をながめたものの感銘も、それからのちの生活感情のなかで美しく消化されてゆくはずの後味が、心理的にふっきれないものをのこしたとすれば、それはむしろ益より害があったということにもなるのである。
指導というようなことは口でいったこと、形でやっていることそのことよりも、心理にのこされる後味の深さ、その影響のよさについて考慮されるべきものだろうと思う。
雄々しい生きてとして若い時代が成長して行かなければならないということは、女の子がたけだけしくなることでないのは自明である。団体さえ組めば何でも優先権をとれる、という昔とはちがった世渡り上手のこつ[#「こつ」に傍点]を会得させることでもないと思う。団体行動の流行は、一人一人の人間としての向上に細かい目を向けないで、ただそこへくっついていさえすればいいのだからという逃避の無責任さを、一層細心にとりのぞいて行かなければなるまい。
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