宇野千代・同)「空白」(立野信之)そのほかいくつかの小説をこの数日の間に読んだのであるが、結局私の心にはその一作一作についての感想を語る興味が生ぜず、むしろ総括的な一つの疑問がのこされた。何故なら、以上の諸作品が、それぞれの作家にとって自信あるものでないことは誰の読後感においても明らかなことであるから。ただ、これらの沢山の小説のほとんど全部を芸術的に弱い作品たらしめている原因を観察すると、こんにちの文学の問題としてある疑問が生ぜざるを得ない。
 これらの作品の中には、ただ一つも熱心のあまり失敗しているというものがない。意あまって筆足らず、ついに親しき失敗を示しているというものもない。ましてや、こんにちの嶮阻な時代と闘う人間の情熱、複雑困難な現実を把握しようとする意企から芸術的均衡が破れているというようなのは見当らない。多くの作品は、共通に、作家の芸術的確信の喪失、自身が作品において主張し得る社会性、存在権に対する懐疑から稀薄にされ、弱められているのである。
 川端康成氏は、今日の文壇で、自身としての芸術的境地を守ること、切磋琢磨することのきびしい作家の一人として一部の尊敬を得ているのであるが、今月の「父母」(改造)の最後の章の効果を、作者自身は何と見るであろうか。慶子という少女の青春の美をめぐって軽井沢風景の間に描かれる作者の幻想の世界から、最後に作者自身が飛び出し、「信念のないロマンチストは皆ファンティジストに過ぎず、信念のないリアリストは皆センチメンタリストに過ぎぬ」と結び、それによって逆効果をひき起し、ある機智的な鋭さで、閃光のように作家としての良心の敏さ、芸術境の独自性を全篇の内部に照りかえそうと試みられそうであったかもしれない。ところが、「父母」全篇を通じての一番普通の人間はわかりよいこの文句には意外に現実的な生活力がこもっていて、効果は平凡に、だが正常に働いてしまった。最後の一句のおかげで、旧約聖書の雅歌の一くさりまでを引用し、築かれた幻想の世界はにわかに作者自身によってかきまわされ、こわされ、読者は索然と、何か作文を読まされたような感想を抱くのである。
 川端氏の芸術境において、こういう顕著な気分の崩壊が示されていることは私の注意をひきつけた。最後の一句を付けさせた一種の神経質さはどこから、いつ、川端氏のところへしのび込んだのであろう?
 こんにちの社
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