説家伴三の作家的日暮しの姿を批判して「小説ってそんなものかしら」「兄さんの勉強というのは場面場面をソツなく書くための工夫で、心をどうかするという魂のこもったものじゃないんだわ」と、兄伴三のみならず今日の職業作家の共通な急所を突いてもいる。伴三が本郷の本屋で、高等学校の生徒(梅雄)が自分の本をしばらくひらいて立読みし、やがて卒然感興を失った表情でそれを乱暴に本棚へ戻すのを目撃していて受けた苦痛の感情は、「強者連盟」全篇の中でも、亮子のいわゆる心をどうかしそうにまで肉薄した描写である。
作者は恐らく周囲に充ちているであろう小説家的日暮しの人工性、稀薄性に呼吸困難を感じ、いかりを蔵して、この一篇に組みうったのであったろう。その作者の気分は、はっきりと感じられる。この作品が道具立てとしてはさまざまの社会相の面にふれ、アクつよきものの諸典型を紹介しようと試みつつ、行間から立ちのぼって最後に一貫した印象として読者にのこされるものは、ある動的なもの、強靭で、肺活量の多いものを求めている作者の主観的翹望であるゆえんである。
作者は人生を愛さずにはおれなく、小説家以上の芸術家を求めずにおれず、その気分はしみ入って来るのだが、遺憾なことに、現代の頽廃の毒気がある程度まで智慧の働きに作用している。最後の一、二ページで、作者は、亮子にほとんど過重な内的容積をもり込んでいるのであるが、「近頃どんな映画を見ても演出を見ても『なんだここが見せ場か』『ここが山か』と案外その見せ場や山が大したものでないのにガッカリしている」だが「こんなことは何気なく成行にまかせながら、自分は始終きびしい一心で自分を律して[#「一心で自分を律して」に傍点]いればいいのだわ」と、気をとり直すのである。しかし作者は計らずもここに到って一つの大きい輪を描いて、自身がすでにその作品の前半で呈出している批判の中へ舞い降りてしまった。一定の自戒をもち、それを守ることそのものを生活の目的のようにして生きている梅雄に友人団が「ただ君の情熱は中ぶらりんで方向がないね」といい、作者はその評言の社会的な正当性を認めている。丁度その評言の真只中に全篇の終りは曲線を描いて陥りこんでしまっているのである。
残された一つの疑問
「習俗記」(芹沢光治良・改造)「葉山汲子」(舟橋聖一)「新しき塩」(荒木巍・中央公論)「未練」(
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