据えて、それらの人々との交渉の間にキーラムという人物、道代という娘、持田、高雄、など、それぞれの人物、ウェスレー教会でのような特徴的な場面場面が描き出されて行ったならば、興味ある一長篇となるだろう。この作品で、作者はまだ自分の描こうとするひろい現実に対して自身のおり場所というものをはっきりきめていない。だが、作者の共感は「労働者に必要な知識」を身につけて、移民の自覚をうながすために努力している持田、可憐で、なにか積極的なものを二世としての自分の生活の中に見出そうとしているジュンなどの上にあるのである。
 佐藤俊子氏の作の「小さき歩み」というどこやら謙遜めいた題から私は作者がこの十数年間に人間として身にとりあつめて来たものの内容と、現在作家として感じようとする文学的雰囲気とでもいうようなものとの間に、何か不安定な間隔が介在していることを感じた。私はこの作者が、都会人らしく自身の経験を単なる偶然のこととして眺めすてず、執拗に、具体的に心理、情景の細部をも追究して後篇を完成することを深く希望する。この作者が歴史の進歩的な面への共感によって生きようとしている限り、よしんば偶然によって貯蓄された経験であろうとも、真摯な芸術化の過程を通じて真に作者を発展せしめる社会的な必然の内容となし得るのであるから。真の収穫はいわばこれからともいい得るのである。

        「強者連盟」

 相当の太さを持った青竹が地べたから生えている。青竹はきめのつまった独特の艷を持っていて、威勢がよさそうに見えるのに地べたから四尺ぐらいのところで、スパリと胴ぎりにされている。切り口の円いずん胴が見える。新しい芽がふき出すとしたら、それは、その青竹のわきからであろう、この切り口からは芽はふかぬ。
 深田久彌氏の「強者連盟」を読み終りのこされた複雑な後味を考えているうちに、私の心には右のような一つのなまなましい表象が浮んで来たのであった。
 作者は、この人生に日本の過去の教養的常識が呈出して来たあく[#「あく」に傍点]の抜けたもの、静的な美のかわりに、「動物的なもの」「骨格をつくる」ところの「アクのつよいもの」の価値を主張している。亮子という溌剌として生来の生活力を豊富に蔵した若い女を通じて、きまりきった「三方に仕切った舞台のような」枠の内での生活に対する本能的な嫌悪を語っている。又、彼女の兄である小
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