会的現実が頽廃的であることと、それを描くこと、虚無に徹することで新たな人間性を見出すと主張されて来た文壇的な文学は、はたして、頽廃を描き得る社会性や情熱を蔵しているであろうか。頽廃を描く文学であるか、あるいは文学そのものの頽廃への傾向であるか。
 プロレタリア文学の敗北的な事情、状態がもとよりこのことには大きい相関関係をもっている。プロレタリア文学がそのおびただしい未熟さにかかわらず、日本の文学の発展のために益した点は文学の内容表現における社会性の評価であった。二三年前プロレタリア文学運動に蹉跌を生じ急速に退潮するとともに、文芸復興の声が高くあがった。それには、当時として必然なさまざまの理由があったのではあるが、それ以来多くの作家の「芸の虫」めいた技法追究は激しく推移する日本の現実の情勢から、作品の社会性を、すごい有様で引はがしてしまった結果を生じているのである。

        ヒューマニズムの問題

 本月もヒューマニズムの問題はほとんどすべての雑誌にとりあげられている。ヒューマニズムがこんにちの現実の中で持っている健全性への可能は、文学の視野をすでにその発展のためには、ある意味で狭隘化している文壇から、もっとひろびろとした生のままの人間的情熱の歴史的課題そのものの中へひらき得る予想にかかっている。「現代ヒューマニズムの文学」(青野季吉・新潮)で、「現代のヒューマニズムは反動的バーバリズムからの人間の擁護である」といわれていることは、最も普遍的なこの問題の本質として肯定することができる。
 現代ヒューマニズムは日本のインテリゲンチアがマルクス主義に絶望し、それと訣別したところにその出発があるのではなく、マルクス主義をも含めて一切の人間の精神の活動や行為、人間的独立が、虐げられ踏みにじられていたところに、そのノッピキならぬ出発があるとしているのは、正当な理解である。その社会的共感の基礎として集団的人間が予想され、今日のわれわれの合理性の声として、人間性を内容づける階級性も、当然思惟の領域に入っているのであるが、それを性急に従来の定形に準じて方向づけてしまっても、観念上の満足にとどまって、現代ヒューマニズムという広汎な名称をもった思想の要求は、それの発生する日本的な社会の特徴、その複雑性と困難性を反映しているのである。
 このヒューマニズムは、文学を社会的、現実的
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