市民の生活と科学
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)軽《かろん》じられて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四〇年六月〕
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 家庭で科学教育をどんな風にしてゆくかということや、科学についての知識を大衆の間にひろめ高めてゆくという文化上の大切なことがらも、現実の問題としては今日いろいろと複雑なものを含んでいるのではなかろうか。一般について云えば、従来日本の女の教育のしきたりでは科学が非常に軽《かろん》じられていた。そのために、そういう片手おちな教育をうけた若い婦人が妻となり母となった家庭のなかで、自然な面白い科学教育が行われようもなかったと云えると思う。それなら婦人の教育におけるそのような重大な欠陥を急速に補って行ったらば数年のうちには解決されそうに見えるが、現在の日本の教育の傾きは、果してその方面の輝やかしい展望を可能にする性質をもっているものだろうか。今日の男児の教育の方向について云えるこのことは、女の児の場合には一層深刻な作用をもっていはしまいか。
 キュリー夫人伝は日本でも昨今ベスト・セラーズの一つであった。大抵の若い人たちは、あの本を愛読して感動した。年をとった人々でも、やはり尊敬をもって、この卓抜な一婦人科学者の堅忍と潔白とが成就せしめた業績を読みとったと思う。だが、キュリー夫人へのその讚歎をそれなりすらりと日本の現状にふりむけてみて、そこにある日本の婦人科学者の成長の可能条件の可否に即して真面目に考えた人たちは果して何人在っただろう。フランスであったからこそ、キュリー夫人が女で科学者であるという道の上にめぐりあった種々の闘いを、成功的に勝ち得たのだという感想は、おのずから湧いたと思う。キュリー夫人のようなひとが外国にはいるのに日本の女は、とその低さをいきなり云われることは日本の刻々の現実のなかで成長して行かなければならない日本の女にとって、思いやりない言葉と思う。文化面でも、どれだけの人間の才能と精力が社会的条件によって浪費されているかということが、つまりはその国の文化の質を語るのだが、日本で女の科学的成長の可能は極めて低くそして狭い。
 或る知名な技術家に十六七の娘さんがいて、そのひとは数学が大変すきだ。女学校へ入った頃から特別に指導者をもってよろこんでその道を辿り、現在では高等数学の相当のところまで行っている。その娘さんが女学校を出てから更に専門の教育をうけて、婦人数学者になる希望をもっているかというと、お母さんはそういう希望がなくはないが、娘さんは普通の結婚をしようという心持らしい。人生に対する娘さんのなだらかなその心持はいかにも好感がもてるのだけれど、そこには何となしもう一寸ひっかかって来るものが残されていて、そういう一つの女の才能が、娘さんの人生へのなだらかな態度と渾然一致したものとして専門的にまで成熟させられ切れない、現在の女の社会での在りようや文化の性質に思いが致されるのである。
 家庭における科学教育ということも、つまりはこういうところにかかっていると思う。夏休みには植物採集をさせますとか、科学博物館へつれてゆきますとか云う、それだけが厚みの全部ではないと思われる。
 つい三四日前のことであったが、夕飯のすんだ餉台のところで、家のものと夕刊を見ていた。丁度『日の出』という大衆雑誌の広告が出ていて、そこに一つの字が目をひいた。本多式貯蓄法、林学博士本多静六。広告にそうかかれている。よほど以前にもこの博士の節倹貯蓄に関する法を語った文章を大衆的な雑誌でみたことがあったが、私は一種の感慨をもってその広告を眺めた。林学博士と云えば、農学の一部で、それは自然科学の分野に属す学問上の博士ということであろう。その人が、林学について語らずに、貯蓄法について語っていることを、吾もひともみっともない妙なことと感じない感覚というものは、日本のどういう文化・科学性を語っているのだろうかと思った。林学専門なら山がよく鑑定されるわけだろう。その直接間接の売買は、現在の経済の組立ての中では金銭上の富を意味している。どんな樹木の山はいい価で利益もある。というなら同じ卑俗さにしろわかりもするが、その現実はふせて、炭の空俵一俵でどれだけ米を炊くことが出来るかというようなところから、物の不足は感謝のみなもとという風な、道義化された説がなされていることは、二重の恥辱であると思った。
 科学についての知識が大衆の間にどのようにうけとられているかというその驚くべき低さと、各専門の人々がその点に対してどんな見解をもっているかという最下級の典型が、この本多式貯蓄法にあらわれている。
 一部の科学者そのものの科学性の低さは、又別の形をもとっていると思う。ホ
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