グベンの「百万人の数学」の序文の中に、ナイル河の氾濫を予言することで支配力を保っていた埃及《エジプト》の僧の秘密について面白い物語がある。科学の力、その美、そのよろこび、そこにある人間性を知らせる良書の一つとして岩波新書の「北極飛行」をあげることは、恐らく今日の知識人にとって平凡な常識であろうと思う。ところが、文部省の推薦図書にはこれが入っていない。何故なのだろう。審査員の中に、そういう方面の科学者がいないのだろうか。いることはいても、投票のようなことの結果ああいう日本として自慢にならないようなことになるという事情があるのだろうか。科学が科学としての評価に立ち得ないということは文化の悲惨であると思う。
 昔アインシュタインが日本へ来たとき、民衆の歓迎ぶりを瞠目して、自分がこのような歓迎をうけるのは、日本の国民全体がそんなに物理学の原理へ興味を抱いていることなのかどうかと、深いおどろきと疑問に陥った感想を語っていた。これも意味ふかく、折にふれての記憶に甦って来る印象である。
 それから又或る座談会の席で、日本の婦人で科学の仕事に入った人々は明治以来例えば医者になるが医学をやるという人はないという事実を聞いた印象も心に刻みつけられた。
 明治の初め先ず普及したのが英語であったような関係で、若く急速に歩み進んだ日本で、婦人の医者はあって、病理などやる人のないということは私たちにもよく肯ける。消極の意味で肯ける。おくれている中国の状況を見ても、そこには女医は急速に増して来ていて、併し女の病理学者は一人も知られていない。
 文学における文芸理論と作品とのようなもので、一方だけでは不具なのだと思う。正当な成育力がないことの左証である。科学上の原理の発展への努力、その努力によってもたらされた成果の後を応用的な部面が跟《つ》いてゆくのは必然であって、日本の科学性というものは、歴史との関係から見てもこの意味でどの程度自給自足であるのか。そのことも考えられる。
 現在の私たちが生きている世界の空気の中で、もし科学教育やその知識の大衆化が、応用的な面でだけとり上げられるとしたら、そこには大きい後退が生じるだろうと思う。ラジオの短波は科学的発達の一定段階に立ってはじめて人間の支配下におかれた現象であろうが、それが今日大衆の日常の裡に血肉化されているかと云えば、そうではないのが現実である。短波がどうであろうと、一見民衆の生活にかかわりないようないきさつに置かれている。動力の科学的進歩のことにしても、自動車がガソリンでなく薪で走って、坂にかかると肥桶を積んだ牛車に追いこされるという笑話が万更嘘ばかりでもない今日、現象として科学の発達のよろこびは皮肉と苦笑とを誘って実感から遠いものとなるのはやむを得まい。台湾旅客機エンボイ機が台北の北方七星山麓で遭難して八名の乗客操縦者全滅したのは三月十二日ごろのことであった。「日航」は当日の暴風と濃霧によって進路測定に誤差が生じたことを遭難の原因として詳細に地理的に報告した。そして「民間航空発展の貴い人柱」となった人々への哀悼、遺族への慰問の責任を表明した。けれども、当時あの新聞をよんだ一般市民は、阿佐操縦士の妹きくえさんの言葉をどう受けとっただろう。きくえさんは、涙に頬を濡して、「無電がついていなかったんでしょうか。無電があったら、兄は決して事故を起すような人ではなかったんですのに」と記者に語ったのであった。「日航」が、真に、科学的にこの悲しい事故の責任をとるならば、この悲痛、切実なきくえさんの問に対して、全国民に答えるべきではなかったろうか。エンボイにはどんな無電設備があったか、遭難後の状況で、その設備の有無が認め得たか得なかったか。美辞麗句の哀悼の詞より、死者を瞑せしめるのは、偽りないその点への科学的な追究の態度であったろうと思う。
 この感想を私は或る新聞の短文にかいたら、あの飛行機は台湾のなかだけ翔んでいるので云々と云ってかえして来た。これも妙だと思われる。私たちの科学上の低い低い常識でさえ、旅客機として翔ぶからには、人命に対する責任上台湾の中だからとて無電なしでいいとはうけがい難い。或は他の何かの理由で民間の機は無電のことについてふれてはいけないとでも云うのでもあろうか。
 現在の複雑な内外の事情は、科学の日常的な応用面に様々の矛盾と混乱、低下と秘密とを生ぜしめていて、それは科学上の理由ではない他の政治、経済の諸事情によって支配されている。
 こういう時期こそ、科学性はその原理的なものへの愛と興味で家庭教育のうちにもとりいれられ、民衆のなかにも培われなければなるまいと思う。この必要は、卑俗にされた文学作品が氾濫し得る時代にこそ、益々文学性というものの追求が妥協を排して行われなければならないという文化の問題と全
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