子供の世界
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》
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 或る若い母さんのうちに小学四年になった男の子がいる。一人っ子であるから、どうしても親たちの生活の目撃者となることが多い。
 その子が或るとき作文を書いた。父さんと母さんが喧嘩をしました。父さんが大きい声で出てゆけと云って、母さんを外へ押し出しました。僕もついて出ました。夜で、どこへ行くことも出来ません。母さんは家の外をぐるぐるまわって、どこか入るところはないかとさがしましたが、父さんがどこもみんな鍵をかけたので入れません。やがて、母さんが大きい声で泣き真似をしてドンドン戸をたたきました。そうしたら父さんが、ばかだナと云って笑いながら戸をあけて僕たちはなかへ入ることが出来ました。みんな笑いました。そういう筋の作文をかいた。
 受持の女の先生は日頃物のよくわかった、自然な心持で子供を見ているひとと思われていたが、この作文をみて、その男の子に向い、父さんや母さんは、あんたがこれを書いたのを知っていらっしゃるの、と訊いた。子供は、知っていると答えた。何と云っていらして? 子供は、よくかけていると云って笑っていたと、そのとおりに答えた。そしたら、先生は暫く考えていて、でもね、もしかしたら父さんや母さんは、こういうところをひとに見られるのがおいやかもしれないでしょう、だから、この作文は上手に書けているけれども、お戸棚へしまっておきましょうね、と帳面のその頁のところだけ合わせて糊づけにして開かないようにしてしまったそうだ。
 少年は、その奇妙なお戸棚と称する糊づけの部分を眺めて考えこみながら、先生、こういうの好きじゃないんだね、といった。
 母さんは、子供は子供として、大人の世界におこることがらに対して、判断も持っているのに、と、糊づけに何かぼんやり惨酷さを感じているのである。
 この小さい插話は、人生にかかわる幾つかの暗示をなげている。
 今日物わかりのよいとされている女の先生などでも、その生活への感情は案外にひ弱くて、所謂《いわゆる》いい生活というものの絵図が水っぽいきれいごとだけで、塗りあげられていて、子供の心が直感した生活のそんなユーモアもわからないということが一つ。
 子供が、先生、こういうのすきじゃないんだね、という結論から何を感じとっているかと云えば、
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