まま、ターニャは猫をテーブルの上から追った。
――今日はどう? あんたのチビさんの御機嫌は。
――オイ! とてもさかんに体育運動をやってます。
ターニャは笑って七ヵ月のたっぷりふくらんだ自分の腹を軽くたたきながら出て行った。
一月半ばかり前、日本女がモスクワ第一大学附属病院へ入って来て間もない或る日だった。風呂に入れといって、背の高くない、身持ちの、ほっぺたが赤い一人の保姆《ニャーニャ》が車輪つき椅子をころがしこんで来た。日本女は体を動かすと同時に肝臓の痛みからボロボロ涙をこぼし、風呂には入れず、涙の間から身持ちの若い保姆の白衣のふくらがりをきつく印象された。
それがターニャだった。
保姆《ニャーニャ》は通勤だ。六人が二十四時間を三交代の八時間勤務で働く。ターニャは夜の当直には来なかった。二十歳である。彼女の夫は国立音楽学校でバリトーンをやっている。ターニャは暇があると当直室の机へむき出しの腕をおっつけて代数を勉強した。毎晩六時から十一時まで彼女はブハーリンの名におけるモスクワ大学の労働科《ラブファク》で、革命がブルジョアの独占からプロレタリアートに向って解放した文化を吸収しているのだ。
朝、床をぬれ雑巾でターニャが掃除している。いろんな問答をした。
――ターニャ、労働科《ラブファク》はもう何年ですむの?
――今二年目だからもう一年です。
――女何人ぐらいいる?
――少いですよ、たった九人。
猫が好きな例の鉢植の植物へ吸のみから水をやりながらターニャは考えぶかい眼つきで云った。
――われわれんところでは、一般に云ってまだ女がどうしてもおくれてます。生産に働く労働婦人の間でも、高い資格を持ってる女の数は、男より低いんですもの。それに労働科《ラブファク》は大抵昼間働いてからだし、勉強も相当骨が折れるし、女はやり通せない場合もあるんです、家庭と子供を持ったりするとね。
――どう? あんたにはやり通す自信がある? そういう体で昼間働いて、夜また勉強する、時々辛いこともあるでしょう。
――|何ともありません《ニーチェヴォー》。辛いと思ったことは一遍だってない。労働科《ラブファク》ではほんとに勉強したいと思う者だけ勉強してるんです。ただ時々眠いことってったら! どうしたって目のあいてないことがあるんですよ、並んで順ぐり居眠りしてる恰好ったら! オイ
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