九年。「津村教授」を帝国文学に発表。一行の批評も受けず、黙殺される。本田華子と結婚。
一九二〇年。『人間』正月号に「生命の冠」を発表。二月明治座に上演。翌月更に大阪浪花座に於て続演。はじめて戯曲家としての存在を認めらる。「津村教授」と二つ合せて戯曲集「生命の冠」を新潮社より出版す。著者の作の書物にまとまりし最初のものなり。四月、「嬰児殺し」を『第一義』に発表。十月文芸座によって「津村教授」初演。菊池、久米、岡本、中村氏等と劇作家協会を創設。三十四歳の時である。
翌一九二一年。「坂崎出羽守」を発表。翌月市村座で初演。「嬰児殺し」有楽座で初演。
一九二二年。「女親」帝劇に於て初演。大倉喜八郎一夜帝劇を買切りし際、「女親」の一部を改めて上演せしことを知り、劇作家協会と共に立ってその非を鳴らし、ついに帝劇を謝罪せしむ。シュニツレル選集をこしらえて印税を全部送ったのもこの年のことである。
一九二三年。早稲田大学講師辞任。「同志の人々」「海彦山彦」等。
一九二四年。震災で演劇雑誌が全滅したので、劇作家協会が主体となり、新潮社から『演劇新潮』を発行。推されて一年間その編輯主任となる。「熊谷
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