同時に感じており、作者も亦この感じを允子の感じの中に置いて見ている。允子は、何故自分らがよい親であった筈だのに捨てられたと感じなければならないかという、最も人間の真実ある交渉の機微にふれた点へは、些も省察の目をむけていない。私はこのことをこの作者らしくない粗末さだと思う。允子は何故、子供は生れたとき既に自分から離れていたのだ、と諦観する前に、抑々人間の本質的な離反とはどういうものかと考えなかったのだろう。人間交渉に真実を目ざすのが特質であるこの作者が、どうして、允子の自分の子ばかりとりかえそうとするエゴイスティックな態度が允男をしんから離れさせたのであること、母、自分の母、ほかならぬ我母が、自分の子ばかりを庇おうとして自分が身をもって守っている友人の名を口にすべからざるところで口にしたことに対する允男の公憤。それが母であるからこそ猶更耐えがたい苦しみと憎悪を感じさせ、本質的に母を捨てた心持になったのだということを、幾万人かの母のために持前の道義的懇切さで説明し得なかったのであろう。これは、十分この作者としてとりあげられる種類の人間的徳義心の問題である。こういう徳義は、パーウェルの母であるとかないとかいうことではない。大処高所から自分とわが子の運命の意味を見とおして、互に傷つきながらゆるがぬ情愛を持つ親は、現在の世の中に全然ない例ではない。
「女の一生」で最も重大な允子の「第二の出産」も、子にばかり頼る不甲斐ない母であるまいとする日暮しの運びかたが強調されていて、「母親というものは生むもの、創造するものである」という健気《けなげ》な自覚を内容づける母としての愛の高まり、拡大、愛の驚くべき賢こさが働くならば、去った息子との間に新しい精神的接近の試みがされるであろうこと等が、全くとりおとされているのは、非常に惜しいと思う。允子の第二の出産に於てのしっかり工合の中には、作者によって彼女の人道的医療がふれられていても、何だか硬く、自分の身を守る決心をした女の底冷たさが流れているのはどういうものだろう。息子との間は、生活的本質で断たれっぱなしで、そこはそれなりで、しゃっきり腰をひき立てた允子の姿は、人間的豊富さにおいて物足りない。
野上彌生子氏の「若い息子」における母の感情を、允子の場合と比べて、感じるものがあるのは私一人ではないだろうと思う。「若い息子」の母親は、やはり高等生の母である。やはり、生活に不安はない家庭の母である。息子がひっぱられたりすることは元より嫌いで、ひそかに息子がそういうことにならないためには大いに努力している小市民的な母ではあるが、避け難いことが起ろうとする前夜、彼女は出てゆく息子に、色のない唇でわずかに囁いた――「さむくなるから――かぜひかないでね。――母さんは。母さんは。――」と。これは断々《きれぎれ》な、とり乱した言葉である。が、切られない愛で息子の心中にある何ものかの横へまでこの母は思わず擦りよって行っているのである。
「波」の中にある言葉に従えば、山本有三氏はこの社会というきたない大溝へ、せめて清水を流し込もうとしている一人の作者だと思う。この作家を愛する読者は、それらの読者に愛されている全くその原因から、この作者の特質である人生的テーマが、現代の複雑な情勢の間で、今日或る危機に近づいていることを敏感に知らなければならない。「生命の冠」などに、世俗的悲惨をのりこえるに堪える高い意気をもって表現されていた人間としてなすべきことを為す気魄は「女の一生」に於て少なからず紛糾し、明らかな方向を示し得ない形で出された。「真実一路」に到って、この作者の核心を画すテーマの曲線は充実した力を失っている。「真実一路」の守川義平が、なすべきこととした生きかたの内容は、その主観的な考えかたで、「生命の冠」の有村恒太郎の行為より遙に社会性が尠く、貧弱化した。「真実一路」のこの主人公は、生涯の終りに当って、為すべきと信じてしたことが、現実には誤りの連りであったことを告白し得るのみであった。従来の生きかたが誤りであったことを自覚したとき、更に誤りを重ねまい為には破局をも忍んだ「津村教授」の熱意はない。この作品で、作者が「或意味では幸福な人」としている睦子の生涯というものも、誤った人生の発足から虚無的な生活破綻に陥り、只その壊滅を惚れた男と共に出来たというところに、僅に或る意味での幸福がかけられているのである。
今、東西朝日に「路傍の石」が連載されているが、山本有三氏が、どんな新しい意力と用意とでもって、今日の彼の読者の胸底に疼いている如何に生くべきかという問いに答えて行くであろうかと興味を覚える。人及び芸術家としての幸福とは、果してどういうところに在るものであろうか。特に、「真理を愛し真実の生活をいとなむ」ことと「社会の中枢にた
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