上りを待っていたら突然ガラを食ったというようなものでしょう。」
 地道な子を育てようとして、そう行かなかったとしてそれは母だけの罪ではないことを作者は認めている。子供のことはもう家庭の中でだけ解決した時代が過ぎた。そのことをも作者は認めている。だが、所謂、それた[#「それた」に傍点]若い者たちの、そのそれる[#「それる」に傍点]必然の事訳が、世間並のよしあしとどんな道義的関係にあるものかという読者にとって最も知りたい点を、作者山本有三は、「若い者は誰も登ったことのないような高い山に登りたがるものでしてね」「どうしてあんな危い、骨の折れることがやって見たいのかわれわれのような年配のものには分らないんですが……」というような表現で、謂わば狡く身を躱《かわ》しているのである。
 一九二〇年にこの作者によって書かれ、出世作とでも云うべき作品となった「生命の冠」で、山本有三氏は、その悲劇的主人公有村恒太郎を如何に生かしたであろうか。この主人公は「商人の務めは儲けるばかりが能ではない。」「商人の本務は契約を守ることだ。」「(前略)金に添っても添わなくても自分のやることはやらなくちゃならない」と云ってイギリスとの取引契約の遂行のために、敢て商売仇から破産させられることを辞さなかった。作者は、この主人公を衷心から支持し、登場人物の一人である医者の口をかりて、はっきりと次のように云わせている。
「悪い結果が来るから悪いことをしないのではない。結果の如何にかかわらず、人はしなくてはならない事を、しなければいけないということです。なあ有村さん。そうではありませんか」
 允子もその事実を認めている今日の社会的悪の問題は、「波」の中で云われている如く「決して一つ一つのぼうふらじゃない。ぼうふらの湧く溝にあるのだ。その大溝が掃除されんうちは、いつになったってぼうふら[#「ぼうふら」に傍点]は絶えやし」ないのである。では、その掃除はどのようにされるべきなのだろう。作者は一九二八年に書いた「風」の中でそれについて、素子にこういう意味を云わしている。生活というものは、鉄道線路のようなものではない。河のように野原を流れてゆくものだと思う。河は、両側に岸があって、水はいつもその間を流れるもののように思われるが、それは違う。岸があるから河はその間を流れるのではなく、河が流れたからこそ岸が出来た。この岸からわきへ出ちゃいけないといったって、水の勢とその地面の高低で河の流れはどうにでもなってゆく。これは国とか社会とかいうものにも当はまる。「法律だの道徳だのというものも、あれは矢張り大きな河の岸」のようなもので、「そういう河になるとなるたけ流れが変らないようにしようと思って、高い土手を築いたり、コンクリートの堤防を造ったりするけれど、そんなにしたってそれが流れに逆ったものならいつか大きな洪水が来て、きっと堤を切ったり、コンクリートの上を乗越したりする」「どうかすると、そんな堤防をおきざりにして、まるで違った方にどうと押出すこともあると思う」「田舎になんか行くとよくあるじゃないの。昔あすこんとこをあの河が流れていたんですなんて、長い土手の田畝の中におき忘られたように続いているのが、あれはつまり亡びた法律、亡びた道徳のシンボルよ」
 河の流れは夥しい水の圧力となって流れているのではあるが、河にはいつもその堤をかみ、堤と昼夜をわかたず摩擦してやがてその岸を必然に従って変えてゆく先頭の力としての河岸沿いの水というものがある。中核の圧力をこめてつたえて岸を撃ち、河の力がこわした堤の土の下に埋まることもあるこの岸沿いの河水の意味を、「女の一生」の中で作者は何故認め得ないのであろう。
「何にしても生活が」根本だということ、「思想というものは母の愛とか肉親の愛というものより遙に深いもの」であることをとりあげている作者は、「驚くべき変化であると同時に恐るべき変化」として若い時代の関心が社会に向けられていることを眺めている。昔は「地震、雷、火事、親父」がこわかったが、今では「地震、雷、火事、息子」だと公荘の洩す苦笑は、あながち公荘のみのものだと云えないものがある。
 自分をよい母と自任している允子が、どんなによい母だって、息子に出てゆかれてしまうのだ、という結論から、再び医者として自立する心理の過程に、私は一応の積極的な意味を認めると同時に、現代の中流家庭内におこりつつある何か深刻な親子の利害の対立と分離と、親が子に対して従来の生活を防衛しようとする小市民的な本能の反映を作者の内面から射すものとして感じた。例えば周囲の事情によって允男が親の家を出てしまったということだけについて見れば、それは家を出たことであって、決して親を捨てたのではない。ところが允子は息子の家出と自分らの捨てられたこととを
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