山本有三氏の境地
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)些《いささ》か
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)勉強する気|頓《とみ》になくなる。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いざこざ[#「いざこざ」に傍点]に堪えて
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今日、山本有三氏の読者というものは、随分ひろい社会の各層に存在していることであろうと思う。
大仏次郎氏などの作品も、吉屋信子氏が読まれるとは別のところに多くの読者をもっていることでは、山本有三氏と同様であろうが、作者と読者との間にある共感の種類は、必ずしもこの二人の作者に於て同じものであるとは思えない。大仏次郎氏の近作「雪崩」などを見ても、読者が大仏氏に牽かれるのは、この作者のこの作者らしい人生観照の或る気分、現代のインテリゲンツィアの一部の人々がよかれあしかれ実際にもっており、或は扮装としてポーズしている知的情感的な或る気分の、文学的表現の味に魅力を感じているのであろうと思われる。大仏氏の読者たちは、大仏氏の作品の裡に、自分たちの現実の姿の断片を発見し、更にその発見によって、自分たちの、実質は案外に貧弱な現実を、些《いささ》かの雰囲気で装飾することをも見習うのである。
山本有三氏の読者たち、山本氏の作品から何かを期待している人々は、そういう気分を主とした気持より、もっとずっと謂わば野暮くさいものをもって作者に向っていると思う。何か人生的な、何か社会の指針的な、何か誠実な生きてゆく人間の姿の表現を、読者は山本有三氏に求めている。山本有三氏と読者との結びつきは、どこか只面白い小説という以上のものに対する暗黙の契約の上に立っているように見えるのである。そして、このことは、今日の社会に於ける一社会人としての山本氏に対する信用をも醸し出しているのである。
この間、志賀暁子のことがあった時、山本氏が文筆の上で示した態度は一般の記憶にまだ新しいことであるが、ああいう場合に限らず、山本有三氏は、他の多くの作者たちに比べると昔から、社会的な行動の多い人である。
作品を書くことは、一つの極めて現実的な社会的実践であるが、そのほか、作品以前の問題として、社会関係の間に処して作者が行動する、その行動において、山本氏は現代社会の不合理の或る面に抗議的に行動して来ているのである。例えば、一九二二年に楠山正雄氏とシュニツレル選集を編輯してその印税の全部を敗戦国の老文豪に送ったことも、単に山本氏が独文出身だからというだけの内面の動機ではないであろう。戯曲家としての氏が、自作の上演に当って劇場側の態度がわるい場合、勝手に改作したり、無断上演したりした場合、法律的手段によっても作者としての正当な権利を主張して来ている例は今日迄一再に止まらない。最近にも、放送局との間に、同種類の問題が生じて、山本氏は自作の放送を中止させたことがある。
山本氏は、封建的な芝居ものの社会で、作者が従来おかれていた隷属的な地位を引上げなければならないという、或る意味での社会的関心から、誰にしろ厭にきまっているいざこざ[#「いざこざ」に傍点]に堪えて主張を押し通そうとしたのであった。
日本の資本主義の機構の中で、作家とその作品というものは、多くの場合芸術家とその芸術というに価するだけの社会的重しをもたされないし、又持たせ得る作者も尠い。山本氏が放送局と正面衝突を辞さない気持の根柢には、そのことに対する鬱積と爆発とがうかがえる。何でも一身の打算と安寧からだけ進退したがる現今の人心を、よいと認めることの出来ない常識に、こういう山本有三氏の或る程度の社会正義感の発動は、少なからず触れるものをもっているのは自然である。山本有三氏の正義感は、常識を備えた今日の一般人の胸の中に蔵せられている正義感の分量に丁度工合よくふれて行き、その扉をたたき、そして平凡な日常の中にそのまま通りすぎてゆく。読者の内に新しい疑問をかき立てて、その人間が鏡をとって改めて自分の顔を見直さずにおられない程の不安を点火したり、その人の営んでいる今日の生活の底が、ああ破れてしまったと感じさせる程の震撼を与えることもない。山本有三氏の作品を読むと、人々は作者の正義感を快く共感し、そのことで自分の人間らしい、誠意の感情を楽しみ、日常的な努力感を刺戟され、同時に、益々今日のそれぞれの日暮しの姿を肯定する気持を励まされる。ところで、今日の私たちの日暮しなるものの土台はまことに矛盾撞着甚しいものがあるのであるから、作者山本氏の与える種類の正義感の満足には一面に、その当然の性質として大きく現代の常套と妥協せざるを得ないところがある訳である。否、或は、他の多くの作者が何の抵抗をも示さず頭から現実の事大勢力に屈服しているに対
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