、今懐疑的になって来た心の目に、自分の幼馴染との間に生れた子をおんぶした嘗ての親友の若い母としての姿が浮ぶ。そして「高等な学術を研究している自分の方こそ断然弓子に勝っているものと今まで自負していたのだが、允子はたちまち奈落に墜落したような気持になった。」実に執拗に意識されている作者の勝敗感と、「女は男あっての女で」あるというこの作者の動かぬ婦人観が、ここにくっきりと刻されている。
 允子は、こういう内的情態で、公荘というドイツ語教師と結びつく。急に進んだこの交渉は允子に何か不安を抱かせるのであるけれども、彼女は「相手が性のしれない人なら別の話だ。地位もなく、人格もないような男なら、それはもちろん考えなくてはいけない。併し相手は大学を出た人だ。高等学校の講師だ。」というよりどころで安心する。允子が自分の姙娠を知って正式の結婚を求めるが公荘は、允子には話さなかった病妻が在り、堕胎をせまる。允子はそれを強く拒絶する。「国法を犯すことがこわいというより、胎内に芽《めぐ》んだものを枯らしてしまうことが恐しいのだ。」「どうにか育てられるものなら、そのために、よし自分は屈辱を受けようとも、生れいずるものは生れさせなければいけない」そして、允子は私生子として第一の出産を行うのである。生れた男の子は允男と命名された。「允男! 允男」「允子に取っては何よりも允男である。」やがて公荘の妻が病死し、允子は失職する。子供を抱えた生活が脅かされはじめ、允子は「結局女に残された一番万全な職業といったら細君業の外にはないのだろうか。これなら一生食いそこないはないのだ」と、細君を失くした医者の後妻の縁談までを、一旦ことわりつつ「あんなに急にことわることはなかったのかもしれない。」とさえ思う。「しかし、もし結婚するのならそんな知らない人よりも……」気心も分っている公荘と、「前のことなんかすっかり水に流して」夫婦になってもよいと思うのである。
 公荘と家庭をもった後も医者として勤めに出ていた允子は、やがて子供の教育には、母が家にいなければならないことを知り、勤めをやめる。「パパとママとどっちがいいと聞かれたので、どっちもいいと答えけるかな」子煩悩な両親と一人息子の生活は、作者の根気よい筆で、子供の探求心の問題、性教育の問題にまで殆ど育児教科書のように触れて行っている。
 今や允男は、青年となった。允男を高等二年生にした二十年の歳月は、公荘と允子との生活をもいつしかかえ、彼等は郊外に木造の小じんまりした洋館を新築した。「家は出来るし、生活の不安はないし、允男の成績はいいし、一家は和平に満ちていた。」
 然し、時代は、允子が允男に風邪をひかすまいとばかり心をくばって生きて来る間に、風波の高いものとなって来ている。公荘夫婦は、允男のかえりがおそくでもあると「まさかそんなことはないと思うけれど」「一つの流行《はやり》だからな」と息子が赤になることを警戒し、息子の書斎をしらべたりする。ハイネの「アッタ・トロル」を「読んでいるようだと、よほど注意しなくちゃいけませんね」「もちろんだ、うっちゃっておいたらそれこそ大変だ。」こういう警戒にもかかわらず、「己は赤の方の心配さえなければ外に心配はないよ」と云う将にその心配が落ちかかって来て、息子はつかまる。允子は警察で息子に会い、父親の地位の危くなることや息子の親友の一人の名を発表したりして、允男を泣き落そうとする。
 釈放されて来た允男は允子にゴーリキイの「母」などを読まそうとするのであるが、允子の考えは、允子は「生活や教養が違っているから」「息子をとっつらまえる方が間違っているんだと、そう単純には思いこめず」パーウェルの母とは逆に「向《むき》になっている息子をしずめることこそ、現在のような事情の下にあってはむしろ母親のつとめだ」という考えを固執している。
 允男は遂に家を出てしまった。公荘は悲歎の裡に死ぬ。允子は不安の絶えないその後の生活の或る日映画の「丘を越えて」を見物して、心機一転した。允子は「丘を越えて」の母親の生きかたの不甲斐なさに刺戟され「女は年をとると子供の外に何もないのがいけないのじゃないでしょうか」「母親は丘を越えて養老院へはいることじゃなくて、もっと大事な丘を越えなくちゃいけない」「女には二つの出産がある。肉体的の出産ともう一つの出産が。肉体的の出産によって女は母になる。そしてもう一つの出産によって母親は人間になるのだ。」允子はそれによって「子は社会に生れ、母は社会に生きるのだ」ということに思い至る。そして、長い苦しみの中から初めて光を認め、また元の仕事をやって行く決心をする。「波」「風」等に比べて、遙かに意慾的なこの作品は、或る労働者の赤坊をとりあげてやった女医である允子が快く早朝のラジオ体操の掛声をきくところ
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング