で、見落せない性質をもっている。山本有三氏は、この根幹をなす生涯のテーマから出立して、更にその人間としてなすべきこと[#「なすべきこと」に傍点]の内容と経過とその帰結とを小工場主、小学校、中学校、大学等の教師、下級中級サラリーマン、勤労婦人の日常葛藤の裡に究求し描き出そうとする。戯曲において、題材は時に神話に溯《さかのぼ》り、封建の武人生活に戻り、西郷南洲からお吉に迄拡がるが、根本の課題は常に変らない。そして登場する人物、配役も、少くとも「津村教授」から「真実一路」に至る間は、小説と戯曲とでいくらかの違いこそあれ、これも些か注意ぶかい読者ならば、おのずから心づかずにはいられない反復をもって、良人以外の男と恋愛的交渉のあった妻、ある妻。その女に対して、人間として為すべき道義の自覚から行動する男。それに母のない息子、ひがんだ息子、希望されずに生れた子、血の信じられない子等が絡んで、なすべきこと[#「なすべきこと」に傍点]の諸ヴァリエーションが奏せられているのである。
 山本有三氏の文章が、平明であろうという特徴は、この作者のねうちの一つとして既に十分評価されている。もう一歩迫って、文学的に見ると、この作者の持つ文章の平明さは、鮮明な描写によって読者の心にひき起される立体的な溌剌たる形象の鮮やかさではなくて、懇切に作者の思惑を読者に向って説き聞かせる説明的文章の納得し易さである。文学的な香気というものはまことに乏しい。けれども、作者がその人物に云わそうと意図している範囲では噛んでふくめるように云っているから、分り易い。平明であるというねうち高い特長とともに、この作者の持ち出す人間の言葉にも、人間そのものにさえ性格的な色調というものは極めて薄い。それぞれの人物が、現実の中から生のまま切りとられて来ていて、時には作者をうちまかすと思われる肉体的、感覚的な動きを示すのとは全く反対に、各人物は、作者山本有三が編み立てた事情を展開してゆくための説明として、裏漉しを通して、私共読者の前に出され、ものを云い、動くのである。そして、仔細に作品の現実に入ってながめると、この作家が作品の主調として主観的に提出しているこの人生におけるある道義、正義、誠意というものの実質が、もし真実この社会に要求されているならば、当然その可能のために作者がよく云うとおり、望む望まないに拘らず承認され、評価されなければならない社会の客観的な正義、道義というものと、案外にも喰い違った大小の歯車となって廻転していることを発見するのである。

 この作者の有名な長篇小説に「女の一生」というのがある。今から四年ばかり前、丁度日本では左翼の全運動が歴史的退潮を余儀なくされるに至ったはじまり頃の作である。
 本屋へ行って、「女の一生」とだけ云ってたずねれば、店員はモウパッサンの「女の一生」を持ち出して来るのである。が、この傑作と同じ題をつけたところにこそ、作者山本氏の意気の高いものがあったと思われる。モウパッサンの描いた女の一生ではない女の一生を山本氏は私たちに示そうとしたことは自明である。フランスの旧教の尼僧教育にとじこめられて、白く脆い一輪の無垢な花弁のような貴族の娘が、結婚の第一日から良人に欺かれ、やがて息子にすてられ、悲惨にこの世を終った。そういう受け身な一生ではなく、女が自分から自分の道を選び、それに責任をもち、人間として女として完成しようとする女の計画あり意志ある一生を允《まさ》子の生きかたで語ろうとした作である。
 幼な馴染で好もしく思っている男を親友が愛人としてしまったことから、允子は深く苦しむが、年頃の女には、結婚の外には生活がないように考える世間の習慣に批判をもち、結婚というものも「せいぜい生きて行く上の一事件ぐらいにしか考えていない」という気持に立ち直り、允子は兄の結婚を動機に、医学の勉強をはじめる。允子は自分を一本の牛乳瓶にたとえ、それが一寸した心の動乱で「ひっくりかえらないようにするためには下に重い金の枠をはめる必要がある。むずかしい学問は、むずかしい職業は、いわば重たい金の枠だ。そういう基礎がおかれてこそ、はじめて瓶は一本立ちが出来るのだ」と考える。
 必ずしも全面的に納得は出来ないこういう動機で医学生になった允子は、その専門学校を卒業する近くから、ひどく生活の空虚感、乾燥に苦しむようになり、再び一つの疑問が彼女の前に現れた。「こういう汚い仕事をする人がなかったら学術は進歩しないわけだけれど、しかし自分のような女までがこういうことをやる必要があるだろうか。」男にだって出来るこういうことでなく女なら――女でなくっては出来ないという仕事は――それは何だろう。危っかしい自分に重い枠をかけるのが目的で、むずかしい[#「むずかしい」に傍点]学問である医学を選んだ允子の
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