で終っているのである。
私は、この作者の生活意識をこの作品までに高め、力あるものとした当時の若い時代の圧力というものを、実に意義ふかく感じとらずにはいられない。作者山本有三は、彼の精神をまどろましては置かない社会の刺戟と摩擦とに鼓舞されて、従来日本のこの種の小説が人情悲劇のクライマックスとしておいた限界を突破した。第一の出産に加えて第二の出産の必然を、常識の中にはっきりと据えて見せたのである。
この作品は、少くとも同じ作者によって書かれた従前の諸作のうちでは、この作者の主要なテーマ、何をなすべきかが積極的に答えられている点でも傑出したものであることに疑いない。
ところで、私は読者とともにもう一度この作品の中へもぐって行って見たいと思う。そして、心に印された一つ二つの質問について考えて見たい。山本有三氏に向って、赤にさえならなければという親心を客観的に批判し観察していないことを云々することは、無理であろう。そういう思想を時代の圧力として、いずれかといえばリベラルな立場を持っていた父親公荘を、通俗に中途であっさり病死させている作者の手法のかげに、この作の中途で警視庁に呼びつけられたりした作者の語られない苦衷があるのかもしれない。私たちは読者として、そういう諸点については今日好意ある節度を守るのであるが、山本氏として、この作者の立て前とする範囲内で、而も、允子の棲んでいる世間並のいいこと、わるいことの評価と、允男の行動に対する歴史的な意味についての無理解とが、世俗的な分離のまま一分も深められていないのはどういうものであろう。作者は、允子を嘗て不正な町医者と正義心から闘った女として描いている。法律の制裁がこわいより、我心が許さないと堕胎をしなかった若い女として描いている。新聞の脱税事件、収賄事件に公憤を感じざるを得ない允子である。息子に真理を教えようとして、今日の日本の母としては最も進歩的に性の教育にさえのり出した母であった。パーウェルの母のように出来ないことは、彼女の小市民としての環境からうなずけるとして、果して、現実に允子が子への無限の愛を抱いて生きているならば、そういう「世間を知らない」「一本調子の」若者らが、この社会の不合理につき動かされて、様々の艱難にとびこんでゆく、その純な心根にこそ、先ず可憐に堪えぬ万斛《ばんこく》の涙があろうと思う。自分が正しいと信じた
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