上は、屈辱に堪えて私生子を生もうとした允子の心は、子に対した場合は実に俗人的になって、「真理を愛し真実な生活をいとなむような人間にしたい」ことと、子供に「社会の中枢に立って立派に働いてもらいたい」心持とを、いつの間にやらごったにしている。この混同は作者によって計画的にとりあげられているのではなく、作者の内部に在るものが寧ろ自然発生的に作品の裡にその反映を見せているのである。
人間の社会、この人生は、確に「真理を愛し、真実な生活を営む」人間の日常生活がとりも直さずその「社会の中枢に立って立派に働く」ことと一致したものでなければならない筈である。けれども、今日の社会の現実は、そのような人間的調和をもった社会生活の中で、各人が持って生れたものを素直に誤らずのばしてゆく可能を九分九厘まで奪っている実際である。社会の中枢で立派に働くことと、真理を愛し、真実な生活を営むこととの間に日夜の相剋が在るからこそ現代の真面目な青年たちは苦しんでいるのであると思う。そういう青年たちの親の深い愁と心痛とがあるのである。そして、山本有三氏の小説に心をひかれる読者層の大部分こそは、実にこういう苦痛をもった人々ではなかろうか。この社会的矛盾の間に、人間らしく生きようとするには、何をなさなければならないか。いかに生きるべきか。山本有三氏が十数年来、芸術の裡を一貫させて来たこのテーマは、現在新しい拡りで多くの人々の生活のテーマとなっていると思う。
元来、この作者は「己の子」というものに対する親の側からの態度について特色的な根づよさで探求をくりかえしている。「波」で作者は、子供は要するに社会の子として見るべきであり、親子の関係はメデシンボールのようなものだ。「落さないように、よごさないように次の人に手渡すのが第一だ」という結論に到達した。五年ばかりの年月は、「女の一生」において更に自分の期待を裏切られた親を、株ですった人間の落胆に比較せしめている。允子の失望に対して、往年の幼馴染、昌二郎は云っている。
「(前略)子供の出来がいい。それで投無《なけなし》の金をつぎ込んで大学へあげる。子供の出世を夢見ていたところが子供は横道へそれてしまった。思惑ががらりと外れたんであんな風になったんじゃないんですか。株に失敗して気が違う人間がよくありますが、あれもまあそれと似たり寄ったりらしいですね。息子に投資して値
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