山の彼方は
――常識とはどういうものだろう――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)海豹《あざらし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)若い雄の白|海豹《あざらし》ルカンノンの物語がある。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四〇年四月〕
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 よく、あの人は常識があるとか、常識がないとかいう。生活の普通の言葉として、私たちが使っている常識というのは、どういうものなのだろう。
 世間普通に、誰でも知っているはずのいろいろなこと、判断の標準、善悪の分けめ、それらをひっくるめて私たちは常識といっていると思う。従って歴史の時代に応じて、常識の内容にもずいぶん大きな変化が起ってくる。今日私たちは、ギリシャの彫刻を非常に尊重して、たとえば、ミロのヴィーナスなどといえば、それこそ常識の範囲でも立派なものとしてうけいれられているのであるけれども、そのギリシャの彫刻にしろ、文芸復興までの暗い中世の時代には、常識がきびしい宗教の重しで窒息させられていて、たまに廃墟から現れる美しい古代の裸体像は、悪魔の白い鬼として恐怖された。いつでも、それぞれの形で私たちの常識は時代というものに大きい枠づけをされていることは争えない。二百年を今日いっときのなかで飛びこえることは個人の力でないのである。
 けれども、歴史と個人との関係は、個人にとって受身なその一面だけではなくて、一方で時代に影響されながらその反面では究極のところ歴史を動かす動力としてそれぞれの個人の時代への働きかけの具合が決定的な意味をもっているということもなかなか面白いところだと思う。この意味では私たちも今日の常識によってさまざまに支配されつつまた一面でその常識を発達させてゆく因子となっている。

 清少納言という人は当時の女流の文筆家の中でも才気煥発な、直感の鋭い才媛であったことは枕草子のあらゆる描写の鮮明さ、独自な着眼点などで誰しも肯うところだと思う。枕草子の散文として独特な形そのものも清少納言の刹那に鋭く働いた感覚が反映されたものであろう。その頃は宮廷の風流はほとんど様式として完成されていた時代で、艶なること、あわれなることとして審美的に評価されることのありようも大方はきまった内容がつけられていた。清少納言は彼女の感覚の発溂さから多くのところでそういう美感の常識を破って、いかにもさやかである。他の人が絵にも歌にもしていない色彩のとり合せや、日常瑣事の風情に眼をつけていて、色彩の感覚などは今日の洋画の色感でさえ瞠目させられるようなものもある。
 清少納言はそういう人であったけれども、人間のいきさつのことに関しては案外にもろく当時の平凡な常識にひき廻されている。知られている通り彼女は中宮定子の官女として宮廷生活をしていたのであったが、この中宮の生涯はあわれの深いところがあって、はじめの頃は華やかなあけくれで内外に大きな勢力もおよんでいたが、後には権力ある外戚藤原氏が奉った他の女人が当時の事情として自然重きをなして定子はやがて、桐壺藤壺などというように中宮のための住居としてあてられている奥の建物から、ずっと端近な今でいえば事務のようなことをする棟に侘住まわれた。清少納言はこの時期にも宮仕えしていたのであったが、彼女の負け嫌いな気質と結びついて現れている当時の常識の姿として、枕草子の中にはこの気立のすぐれたおおらかな中宮のあわれに、優婉な宮廷生活は描き出されていないで、この人の華やかであった時の物語、情景、印象などがとり集められている。勝気な枕草子の作者の気質は、中宮への愛情と尊敬からもその隆々とした絵姿だけで描きたかったのかもしれない。だが人間の何か忘られない姿というようなものははたして富貴の輝きに照らされている時ばかりにあるものであろうか。
 枕草子の中にこんな場面がある。
 ある朝早く、帝と中宮とが並んで身分の軽い者たちが門を出入りしたりしている朝の景色を眺めていられた。お二人が来られたので女房たちは慌しく引かついでいた夜の物などを片よせている。みんなも一緒にあちらへ行こうと帝がいわれたが、清少納言たちは、おつくりでも致しましてからといっていると、簾の外で物をいいかける男があった。軽くあしらっていると、それがかねがね清少納言の讚嘆をあつめていて地位も名声も高い美男の殿上人であったので清少納言は少からずうろたえる。その殿上人は、女の人は寝起きの顔がことの外美しいと聞いていたから見に来たのですよ。帝がいらしたうちからここにいました、といったことなどが作者の当時の官女らしい才気の反応で描かれている。
 この朝の出来事を書いているとき、作者は帝と中宮とが並んで外を見ていられる様子をただおめでたい
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