ことだと言っているばかりである。お仲が睦じくてめでたいという表現で終っている。ところが私たちにはその朝の有様が、もっと含蓄をもって語りかけて来るように思われる。経済や政治の力に押されて若い帝が、公には藤原氏の関係の中宮を立てていられながら今は有力な背後関係を失っている定子の美しい心立にひかされて真実の二人の愛は変らず、そうやって端近く侘住んでいる定子の許で夜を過ごし、朝早く日頃の帝のお暮らしにはもの珍らしくうつる門の景色などを互によりそって打眺めておられるという情景は、私たちの心をやさしく傷ましめるし、また静かな深い喜びのあることをも感じさせる。
 人の心のあわれ深い趣は、いかばかりかこの朝の有様にこめられている。それだのに枕草子の作者は、当時の風雅の瑣末に敏感な官女らしさで自分を中心に描き出しているのはいわば品さがっていて何だかくちおしい。もし彼女がもう一皮真から常識をぬけていたらば、この朝のおとなしくやさしい人間の愛着の姿がもっとまざまざと描かれたであろう。そして、読者の肺腑を貫いたであろう。
 私たちにこれだけの思いを抱かせるのも、つまりは帝と中宮の絆が、軽薄な当時の常識から溢れ出ているからではないだろうか。権勢につき、それに媚びて情愛を移らせることが怪しまれなかったその頃の殿上の気風のままに、帝の情が浅いものであったなら、今日私たち女の読者が清少納言に、彼女の才気でも書ききれなかった人生の局面があの一巻の中にちらついているなどとはいわなかったであろうと思う。
 こうしてみると、常識というものはあるところからあるところへまで行くのに、ここを通れば間違いないという、一本の踏みならされた道のようだと思われる。

 イギリスの作家キプリングに有名な「ジャングル・ブック」という作品がある。動物の世界の物語であるが、この短篇集の中に若い雄の白|海豹《あざらし》ルカンノンの物語がある。北極光の照らす深い北海の年々の集合所から真白い一匹の雄海豹のルカンノンが自分の躯にうずく希みにつき動かされて、海豹の群がまだ一度も潜ったことのない碧い水の洞をぬけて遠く遠く新しい浜辺を求めて行く冒険が情趣深く描かれている。
 私たちの心にこのルカンノンの憧れの心がないといえるだろうか。私たちが地球は円いということを知っているのは常識である。中世の伝説がいっているように、地面の涯は崖であってそこから先は地獄が展《ひら》けるとは思っていない。だけれども、広い曠野に立って遠い地平線を眺めやった時、その地平線に何となくひかれる心、その地平線のかなたを思いやる心は、いつも新しくいきいきとしている。私たちの祖先の人たちが地平線を眺めてやはりいうにいえない牽引を感じたのとは、また違った現代の豊富な知識と感想とをもって私たちは地平線を眺めるのである。地球というものを考える。
 常識は地球の円いことを語る。遠い地平線を眺めると人間はいろいろなことを思うものだし、思うことはその時代時代によってたいへん違うと教える。しかし、肝心のそのひかれる心の生々しさ、感じてゆく過程にいわばその人の生涯が圧縮されて内容づけられていること、人間はその心で自分たちの地球を今日の常識が理解しているところまでの現実性で我々の社会へもたらしたのであったということはめったに語らない。
 私たちの一人一人の生活の歴史は、他人ではそれをしなかったような個人としての経験をもたらすものがやはりこの常識の道を歩きながらも、かなたにある地平線にひかれてゆく心であるというのは、何と興味深いことだろう。芸術上の仕事それから科学の仕事、人類の歴史に何かを加えた人間の仕事は、その核心にそのような心をかくされたきっかけとして持っているというのは何と楽しいことだろう。たとえばキュリー夫人のラジウムにしろ、もし彼女とその卓抜な夫のピエールとがある発光体に最初の注意をひきつけられてゆかなかったとしたらば、彼女の不撓《ふとう》な根気強さもラジウムに到達することはなかった。
 こうして考えてみると、現実を知っているということと、常識的であるということとの間には案外大きい違いがあることを知る。知識や教養の常識性ということがここから生じて来る。

 せんだってある婦人雑誌の座談会で、専門学校程度の勉強を終って今は知的な職業に就いているような若い女の人数人と二人の男の作家が結婚の問題などを中心に話していた。その中で一人の女の人は、結婚について、私には結婚ということが本当にはまだわかっていないと思います。お友達にきいたら、それは子供を産むためだといいましたけれど、といい、結婚の相手を選ぶことはやはり両親の意見に一任するのがよいと思う、両親たちは経験をもっているから。という意味のことを語っていた。それに対して作家の一人は、結婚というものがい
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