う。通ということはそれなりでは趣味でもないし教養でもない。あれこれの通に嚇《おど》かされず自分の本当の好き嫌い、よさわるさを判断としてもっていてこそ趣味があるといえようし、教養があるといえよう。
 常識的であるということと実際的であるということとは、目前の結果から物をいって評価するところで互に非常に似通っている。同時にそれが大局的にみて百年の為に何事かを計画するという愉快な気分を失っていることでも互に似通っている。とくに日本のしきたりの中では今日でも男よりも女の方が常識の負担のもとに生きている。家庭生活の中でもいわゆる実際的なことを男よりも多く受持つのであるけれども、それが女の生活における現実の豊かさとして実って来ないのはなぜであろう。面白いお婆さんよりもいやなお婆さんの方が多いというのはなぜであろう。ふざけて男の人たちが、困った事、厭な事を現す字にはとかくどこかに女という字がつくと笑うのはなぜだろう。
 常識的であるということと実際的であるということは似ているが、現実的であるということは必ずしも同じ内容をもっていない。現実的であるという場合には、自分の生きている時代の常識の性質やその性質のよって来る社会的な原因およびそれが生活を明るくするものであるか、そうでなくするものであるかということについても考えるだけのものをもっている。考えた結果に従ってある範囲までは自分の態度なり周囲へのおよぼし方なりに何か持ち来たすこともできる。女の人が常識に負かされて悪い意味の実際家になって、年を経るに従ってつまらない人になってゆくのは、彼女たちが現実を充分知っての意味で現実的に成長できない場合にきっと起って来る。同じ常識の埒の中に暮らしても外で働いて経済的に自分の主人となっている男の生活は、あてがわれた家計の中で今のような世の中に辛苦することだけで明けそして暮れてゆく女の実際とは何といっても違ったところがある。
 私たちは、そんな辛苦はつまらないと五百円の収入の男を夫としようとするのではなく、その辛苦のつまらなさのも一つ先の社会の波までも見透して、機智とユーモアをも失わず自分たちの幸福を守ってゆこうとしているのだと思う。
 いつか婦人の生活と知性ということにふれてかいたことがあったが、常識というものについての私たちの態度がどうであるかということの終りには、やはりほんものの知性の必要が求められてくると思う。[#地付き]〔一九四〇年四月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人画報」
   1940(昭和15)年4月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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