く彼が忘られようとしていた或るとき、突然、まったく思いもかけず、村の者が抱腹絶倒するようなことが突発した。
 それは、あんなにして、自分で顔まで剃って嫁づけた女房を、彼がいきなり行って、引っ攫《さら》って来たという、いかにも彼らしいことが起ったのである。
 或る日、フイと女房の後妻になっている店先へ現れた彼は、帳場の側に坐って、何か選りわけている女房の顔を見ると、とてつもない大声で、訳の分らないことを二口三口立て続けに喋ると、やにわに手を延ばして、女房を掴んだ。
 そして、彼がどこの何者だか知らない亭主が、あっけにとられて、眼ばかり瞬きながら、茫然自失している隙に、女房の手を小脇にかいこむと、彼の能うかぎりの全速力で駈け出した。
 口も利けないようになった女房は、片方だけ草履を引かけたまま、大きな彼の体の傍にまるでお根附けのようにして、家まで引っぱられて駈けて来たのである。
 息をはあはあ弾ませながら、ブルブルする手で湯を飲む女房を眺めながら、煙草に火をつけた彼は、このことについて、一言の説明もしない。女房もまた、聞こうともしなければ、戻って行こうともしない。
 二人はまた翌日から、鳥
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