れが無くなってみると世の中じゅうのものが歪んだり、ひしゃげたりして見える。どっちを向いても見当がつかない。てっきりここと思うところが、皆少しずつ狂ったところにある。
今まで楽に歩き、楽に伸していた手足が、何だか、うっかりは伸されないような心持になって来たのである。
自分の強情が解り、頼んだぞという一言で自分を生かせもし、死なせもする人を失った恐ろしい寂寥が彼の、いい魂に沁み透った。
山沢さんの棺と一緒に地の下へ埋まってしまった自分の未来に対して、何を希望する気もない。ただ旦那様の盛だった時分に、その恩寵を一身に受けた自分としての光栄と、誇りの追想が、これから先の生活にたえ得る矜恃を彼に与えたのである。
けれども、もちろん彼はこんな風に、自分の心について考えるのでも、云うのでもない。
「俺の強情を、取っぷせたなあ旦那様一人だハハハハ、今時の者にゃあ、ちいっと手強《てごわ》え爺だな」
主人を失ったブルドッグのように、彼は傲然と哄笑する。
淋しい淋しい心持が、シンシンと胸に滲み込んで来ても、旦那様のお墓の前でなければ、彼は涙を見せない。
俺の涙を見せてやる者あいねえという彼の心
前へ
次へ
全51ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング