心づいた。そうすると、急に恐くなって――今度は確かに恐怖を感じて――さっさと岸へ戻って来てしまった。
青ざめて体中から滴《しずく》をたらしながら、汀に立った三郎の顔へ、近々と自分の顔を近よせながら、
「よくしてくれたな、有難かったぞ」
と山沢さんが云った。
すると、彼は急に、真赤な顔になりながら、大恐悦な声を出して、皆が気味悪がったほど笑ったのだそうだ。
「あのときあ死神にとっ憑《つか》れはぐった」
とそのときを思い出すたびに彼は云う。
自分の心を解剖する力などはもちろんない彼は、その異常な昂奮を、ただその底無しの「魔所」にいる、何かに取っ憑かれたためだと今も思っているのである。
その話を聞くほどの者は皆やはり彼同様の解釈ほか与えないとみえて、自分の一つ話、それは死神に誘われることは、決してないものではないという彼の考えと、実際どこの湖や河にも、きっと一つは「魔所」のあるものだという伝説との、何より確な証拠として、話すのである。彼の黒狐と同様に、ただ奇態なこともあるものという言葉で総括されているのである。
当人の彼の方は、極々さっぱりと片づけているが、山沢さんはさすがに何か感
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