わず、
「ハアえれえ暑さなこった」
と独言《ひとりご》ちながら、何心なくフイと腰を延して見ると、いつの間に昇ったか、大きな大きな、途方もなく大きな月がついそこの松の梢に懸っている。
 よく瞳を定めて見ると、大きいばかりでなく、色差しも何だかいつもとは違う。まるで朱塗の丸盆のようにどす赤い月が、ビクともしないで、いつまで経っても同じ梢に止まっている……。
 これにはさすがの女房も驚かないではいられない。大きな声で呼び立てたので、近所合壁の者が皆出て来る。出て来ては、皆度胆を抜かれる。
 まるで、茹《ゆだ》ったか酔っぱらったようなお月様が、小半時、始めの処から一分一厘動かないのだから、なるほど、只事ではない。
 天地が、また火の玉に戻る前兆だの、凶作のお知らせだのと、ワヤワヤ大騒動をしていると、やがて一人の子供が突き抜けそうな声で、
「あれ! 見ろよ、あら! あら! 山からもう一つお月様あおできなすった」
と怒鳴った。
 見ると、ほんとに、朱色のお月様の後の山際から、淡金色のすがすがしいもう一つのお月様が、夕暮の空に後光を燦《きら》めかせながら、しずしずとお出なさる……。
 ところが、いや
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