らない。
 私はただ、箱屋へ一年半ほどいた後、漢法医の下男に入り、またそこを出てから、「屋大工」の年季に入ったことだけを聞き知っているのみである。
 箱屋へ行ったのは、稼ぎを覚えるためである。漢法医の世話になったのは、工合の悪い右の肩が、時候の変り目、変り目にいたむのを手療治するためであった。
 主人は親切な人だし、仕事は楽だし、手当てはしたいだけ出来るし、彼にとってはこの上ない処であるべきはずなのだが、ただ一つのことが、やがて彼をそこからも飛び出させてしまった。いくら下男でも、薬草刻みをするからには、医術の初歩を知らねばなるまいという、主人の親切気が、彼にとって蛇より化物より嫌いな書物をあてがわせたからである。
「何々の病気には、かれこれの草を煎じて服すべし。それでも利かざるときは、なお、何々を用うべし……。まんではあ、雛形と、ちっとも違わねえこった、ハハハハ」
 彼は今でもこう云っては笑うからよほどその方則が滑稽に感じられたのだろう。若しかすると、「先生様」の尊敬は、こんな下らない薬草の講釈から出て来るのかとでも、思ったかも知れない。とにかく、そんな処からは、すぐに出てしまった自分
前へ 次へ
全51ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング