蔕《へた》の方から腐りかけていた一つの柿が、彼にとって重大であったのである。
三
それほど、その柿が重大であるには訳がある。
彼は、もちろん親父も和尚も知るまいと思ってしたのだったが、案外なことに和尚さんはちゃんと知っていた。そして知っていたばかりか、今、親に別れて、他家へ寝とまりしなければならなくなった子供とは思えない胆の太いところがあると云って、讃めたのだそうだ。
親父はいい子を持ったと云われて大いに面目を施し、村へ何よりの土産にその言葉を持って帰った。
私には、胆が据わっているとか、太いとかころ柿を盗んだかどうだかは分らないが、ともかく、彼は和尚さんのお気に入った。
三郎坊主、三郎坊主と云って、お斎《とき》の出る所へのお伴は、いつも彼に云いつけられ、
「この小僧はな……」
という言葉を前置きにしては、あの柿の一件を行先々で吹聴される。するとまた、聞くほどの者が、皆感歎する。そして、今まで呉れそうもなかった菓子など、よぶんに挾んでくれたりする。
彼は得意にならざるを得なかった。夜、和尚さんに炉辺で、一休和尚の話を聞いては、ひそかに、自分の身の上と比較して見たり、夢想して見たりはしたけれども、不仕合わせなことには、文字が生れつき性に合わないと見えて、一字覚えるに、非常な苦しみをしなければならないのが、いつも彼の愛すべき得意に、暗い裏をつけた。
村の仲間に自慢されるのに張合づいて、手紙は立派に書きたい、立派に書きたいという必要に迫られて、手習いはする。
けれども、読むこととなったら、もう駄目である。始めの五六字こそ、気根をこめて、大きな眼を見張りながら、四苦八苦して読み下す。二度も三度もその五六字を往来して、ようよう訳が腑《ふ》に落ちると、また次の五六字へ辛うじて進行する。蛞蝓《なめくじ》が這うようにといっていいか、何といっていいか、驚くべき緩さで、長閑《のどか》に辿っているうちには、とかく気まぐれな考えの緒が、あらぬ方へ紛れ込みそうになる。それをつかまえつかまえ、一方では時間を超越したその努力を続けて行けるほど、彼の脳髄は細かくない。異常な忍耐をもってたかだか一二行も読むと、残酷に本を投げ出して、大欠伸《おおあくび》をする彼は、もじゃもじゃな頭の上で不釣合なちょん髷を踊らせながら、いたずらを始める。本を読んだときにかぎって、そのあとの「あたけかた」はひどかったのだそうだ。
或るとき、何でも行った年の暮れ頃らしい。いやな本に、気が鬱していた彼は、日向のぽかぽかする本堂の縁側に腰をかけて、両足をぶらぶら振りながら、相手欲しそうにあたりを眺めまわしていた。和尚さんが留守なので、納所《なっしょ》の方もひっそり閑として、どこかで寺男の藁を打つ音が、木魚のように聞える。
ときどき思い出したように洟《はな》を啜り上げながら、当もなくさまよっていた彼の眼は、やがてフトかなたの鐘楼の中に、大きな体をのっしりと下っている、鐘の上に吸いつけられた。
まだ子供だった彼に、鐘楼は禁断の場所であった。火事か、異変のあったときででもなければ、刻限以外の鐘は撞《つ》かないことになっていた時分のことであるから、いくら可愛がっている三郎坊主にも、鐘だけは触らせなかったのである。
その、禁制の鐘を見ながら、やや暫く首を捻っていた彼は、何と思ったのか急にそわそわしだすと、堪らなそうに首をすくめてほくそ笑むなり、どこへか駆け出した。そして瞬く間に六七人の仲間を引きつれて来ると、一人が納屋から古俵を持ち出す、他の者が細引きを引きずり出す、枯木を集めるもの、火打石をさがすもの、見る見るうちに、何だかものものしい仕度が出来上った。
すると、皆が丸くなって「じゃんけん」をする、負けた一人が、本堂傍の梁へ吊るした古俵の中へゴソゴソと這い込むと、庭で枯木へ火をつけた一人が真剣な声を張りあげて、
「火事だぞーッ、火事あおっぱじまったぞー!」
と、いきなり怒鳴り始めた。
すると梁から下った俵の傍らに、和尚の杖の折れを握って立っていたのが、荘重な手つきで古俵を突く。
一つ突くとゴーンと鳴る。
二つ突つけば、ゴーンゴーンと二つ鳴り渡る。
三郎坊主の発議で、皆な火事の真似を始めたのである。もう五十何年かの昔、奥州の山中に火事などはめったにない。中には、火事がどんなものだか知らなかった子供さえいるのだから、これには皆な有頂天になった。そして、傍から燃火をドンドン加えながら、盛に、
「火事あ、おっぱじまったぞーッ、ゴーンゴーン」
を繰返す。そして幾度鳴ったら、交代するという約束で、ちょうど三郎坊主が、鐘になったときである。
そこへひょいと和尚が帰って来た。
四
皆はもう、すっかり面喰ってしまった。そして、我がちに逃
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